「映画における緊縛指導 〜番外編2〜 たこ八郎」の版間の差分

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2015年10月12日 (月) 10:50時点における最新版

この記事は2009年(平成21年)12月28日に「Obsession II 」に投稿されたブログ記事を転載したものです。

 写真は、奇譚クラブ1968年(昭和43年)9月号に掲載されている、団鬼六の『ピンク映画シナリオ「赤い拷問」』の撮影スナップ写真である。これは『続・花と蛇 赤い拷問』として同年にヤマベプロから松原次郎監督の作品として公開されている。写真で縛られているのが主演の谷ナオミである。写真の右下で、しゃがみながら縄を握っている男性がいる。よく見ると分かるが、「たこ八郎」である。正確に言うと「太古八郎」時代のたこ八郎である。映画における緊縛指導、今回はSMと少し離れてしまうが、番外編2としてプロボクサーでコメディアン、「たこ八郎」の生きた時代のSMの流れをまとめてみた。


 たこ八郎は本名を斎藤清作といい、1940年、仙台に生まれる。SM関係者でいうと、明智伝鬼や志摩紫光と同じ世代である。高校時代からボクシングが強く、宮城県高校王者を2度獲得しているが、高校卒業後は上京して銀座の貴金属店に就職している。本人もこの時点では、プロのボクサーになるつもりはなく、むしろ芸能界に入ることを漠然と夢見ていたようだ。

 銀座の貴金属店は長く続かなかったようで、半年後には、映画のフィルムを自転車で運ぶ仕事に変わっている。仕事の帰りに前を通るボクシングジムになんとなく入会するのが、1959年(昭和34年)の暮れ。ここからたこ八郎のボクシング人生が始まる。

 たこ八郎が入会した笹崎ボクシングジムは、同期にファイティング原田を抱える、上り調子のジムであった。たこ八郎は翌年の、1960年(昭和35年)にはプロデビュー、1962年(昭和37年)の暮れには、とうとう日本フライ級チャンピオンになっている。たこ八郎22歳の時である。

 相手に打たせるだけ打たせて、最後に反撃するスタイルは、当時のボクシングファンの心を掴んだようで、『河童の清作』のニックネームで大人気となる。プロボクシングのファンであった須磨利之氏も「斉藤清作のことをよく知っていた」と濡木氏が述懐している。ただし、この「打たせるだけ打たせる」戦法、実は相手のパンチをよけようにもよけられない、たこ八郎の苦肉の策であった。たこ八郎の左目は、小学生の時にうけた傷のため、ほぼ視力のない状態だったという。たこ八郎は、ほぼ片目で闘っていたわけである。「あしたのジョー」で、矢吹丈がとったノーガード戦法が、このたこ八郎をモデルにしたものだという説もある(ただし、ネットに流布するこの逸話、出典を捜して見たが今のところ見つかっていない)。

 1964年(昭和39年)、日本王座3度目の防衛戦でたこ八郎は敗れ、ボクシング界を引退する。面白いことに、たこ八郎はこの1年前の現役チャンピオンの時点で、由利徹に弟子入りを申し込んでいる。芸能界へ入りたいという思いは、やはり強かったのであろう。この時、由利は入門を断っている。

 ボクシングを引退してから、コメディアンとして日の目を見出す約10年間、すなわち、1964年から1970年中頃の間のたこ八郎の歩みが面白い。これまで「映画における緊縛指導」で紹介してきたSM界の初期の動きとも重なる時期である。あまりきっちりとした資料の残っていないこの時期ではあるが、散在する情報をたよりに、この時期のたこの足取りを追ってみよう。

 ボクシング界を引退したたこ八郎は、再度、由利徹に弟子入りを希望し、今度は許され入門する。1964年(昭和39年)春のことである。ただ、ノーガード戦法の後遺症に悩まされていたようで、1年後の1965年(昭和40年)には由利徹の元を去っている。おそらく後遺症の言語障害は、1970年代まで続いていたと思われる。左目の視力障害をノーガード戦法でカバーして日本チャンピオンを獲得したように、一流のコメディアンになるため、言語障害カバーする独特のキャラクターを模索していたのが、この1964年から1970年中頃の時期と捉えることもできる。

 由利の元を去った後は、「映画」と「芝居」に関わる生活を送る。「ピンク映画」と「ストリップ」「ピンク実演」である。ここらあたりの10年間の整理が難しい。まず、「ピンク映画」に絞って情報を拾ってみよう。

 団鬼六の自伝で、しばしば、アテレコ会社時代のたこ八郎の逸話が出てくる。既に述べたように、団氏は1965年(昭和41年)、それまでの神奈川県の三浦半島での英語教師を辞し、東京の海外ドラマを翻訳し、日本語吹き替えをおこなうアテレコ会社に就職する。ここで、山邊信夫氏と知り合い、1965年版『花と蛇』が誕生するわけだ。団氏の逸話では、このアテレコ時代に「タコ八郎が声優としてマネージャーに連れられて来て、「恐妻天国」の怪獣役の吹き込みをした」とある。ただし、団氏の自伝には創作部分がかなり紛れ込んでいるようなので、事実なのかどうかなんともいえない。

 はっきりとした記録上、たこ八郎が映画に登場するのは、山邊信夫の映画である。1966年(昭和41年)の『汚辱の女』が調べた中で最初に「太古八郎」がリストされている映画である。脚本は黒岩松次郎(=団鬼六)、監督が高木丈夫(=本木荘二郎)と岸信太郎(=山邊信夫)となっている。他にも『鞭と陰獣』、そして冒頭に述べた『続・花と蛇 赤い拷問』にリストされており、これらは1968年ヤマベプロの作品である。この時期、たこ八郎が団鬼六や山邊信夫と近い位置にいたことがわかる。

 たこ八郎自身は自伝で、「ピンク映画に最初に出たのは小林悟の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と述べている。ただ、小林悟の映画にたこ八郎が出演した記録は見つからないし、小林悟の『花となんとか』に相当する作品も思い当たらない。「最初のピンク映画の監督とされる小林悟」と「団鬼六の『花と蛇』」が錯綜して間違った記憶になっているのではと思われる。さらにこの後、小林監督が女優の体を自らべたべた触っていた、といった内容の証言を書いているが、これは本木荘二郎の撮影スタイルと似ている。ここでも高木丈夫(=本木荘二郎)の思い出が、小林に置き換わっているのはないかと想像される。

 団=山邊コンビは1969年頃には決裂し、団氏は自ら「鬼プロ」を設立し、そこで映画制作を始める。この「鬼プロ」社員第一号としてのたこ八郎の逸話も団氏の自伝にしばしば登場する。「渋谷の桜ヶ丘に六畳二間のアパートを借りて鬼プロ事務所を開設。事務所の留守役に、浅草のストリップ劇場に出演していた、たこ八郎を呼び出した。」である。この当時たこ八郎はストリップ劇場にも出演していたことが分かる。

  1970年代に入ると、コメディー俳優としてのたこ八郎が次第に各方面から注目されてくる。1971年(昭和46年)の東映『新網走番外地 吹雪の大脱走』、1974年(昭和49年)、鈴木則文監督の東映『聖獣学園』(多岐川裕美主演)と大手映画会社の作品に出演すると当時に、ピンク映画においても山本晋也監督の多くの作品に出演している。1977年(昭和52年)の松竹『幸福の黄色いハンカチ』(山田洋次監督)で高倉健を相手に名演を披露している。映画だけではなく、TVでも、1976年(昭和51年)の久世光彦製作のTBSドラマ『さくらの唄』をはじめとして、「ムー一族」などの久世作品の多くに登場する。タモリとの相性もよく、「笑っていいとも」や「今夜は最高」で独特のキャラクターを出していたのが記憶に新しい。1970年代の後半には、コメディアンとしての確固たる地位を築いているのが分かる。

 次に、1965年から1975年頃のたこ八郎の足取りを、「ストリップ」「ピンク実演」「芝居」を軸にまとめてみよう。

 記録によると、1965年(昭和40年)、由利徹の元を去ったたこ八郎は、しばらくして、「泉和助」の元で1年ほど修行をする。泉和助は、ヨーロッパで修行を積んだ本格的なボードビリアン、日劇ミュージックホールなどに出演していた。その1年後には、泉和助の紹介で弟子でもある「泉太郎」(後の二代目泉ワ輔)の劇団「泉太郎と喜劇の楽園」に入団している。浅草での喜劇や全国巡業を2年ほどおこなっていたようだ。この時期にトレードマークの尻尾のようなヘアスタイルを確立している。

 1968年頃には、泉太郎の劇団を離れて、由利徹一門の「はな太郎」の元に居候していたとある。はな太郎と一緒に仕事をすることはなく、「主にピンク映画の出演とピンク芝居」をする生活とある。

 上述の1969年(昭和44年)に結成された鬼プロでも、たこ八郎は「ピンク芝居」をしていた。団氏の自伝によると「ストリップ劇場で照明係をやっていた杉村をたこ八郎が連れてきた」「杉村にたこ劇団を構成させ」「恵通チェーンの直営館数カ所にたこ八郎を座長とするアトラクション劇団を送り込むようになった」とある。ここに出てくる、「杉村」とは緊縛写真家・杉浦則夫氏のことである。恵通チェーンとは現在のヒューマックスシネマにつながる映画会社で、直営館として有名なのは新宿、銀座、池袋の「地球座」である。銀座「地球座」は今の「銀座シネパトス」に相当するが、濡木氏がここで、たこ八郎の演ずる『家畜人ヤプー』を観たこと(「宇宙人に扮し、しきりに「キャッ、キャッ」という奇声を発し、手足をふり回していた」)を述懐している。いつのことだったかは明記されていないが、1970年に康芳夫氏が仕掛けたヤプー・ブームの頃ではないかと想像される。

 1970年代の初め頃から数年間、たこ八郎は新宿百人町で「たこ部屋」という小さな飲み屋をまかされていた。この「たこ部屋」の2階のアパートがたこ八郎の自室でもあった。「たこ部屋」には、濡木氏や須磨氏を始め、山本晋也監督などの映画関係者、田中小実昌氏、深井俊彦氏などのストリップ関係者が集まっている。「たこ部屋」は数年でやめたようだが、たこ八郎はこの百人町やゴールデン街を愛していたようで、1985年(昭和60年)の舞鶴の海での不幸な溺死も、ゴールデン街で飲んだあとの事故であった。また、当時の自宅も、「たこ部屋」の近くの百人町の小さなアパートである。

 以上が1965年から1975年頃のたこ八郎の足取りである。団鬼六氏や濡木痴夢男氏、さらに須磨利之氏や杉浦則夫氏まで登場してSMファンには十分興味深い話であったと思う。ただ、「ピンク映画」の部分は比較的イメージしやすいと思うが、「ストリップ」や「ピンク実演」の部分はどうだったであろう?私自身、「ストリップ」「ストリップ劇場での芝居」「ピンク映画と実演」が、どうにもイメージできなかった。実際にその時代を経験した人なら当たり前のことなのかもしれないが、映画の間に芝居が行われていた、という事実そのものが私にはイメージできない。次回は、「たこ部屋」の2階のたこ八郎の部屋の隣に住んでいた、『深井俊彦』氏に焦点を当て、「ストリップ」「ストリップ劇場での芝居」「ピンク映画と実演」など、「SMショー」につながる1960年代の動きを整理していきたい。   (参考資料) 団鬼六『ピンク映画シナリオ「赤い拷問」』奇譚クラブ1968年9月号 笹倉 明『昭和のチャンプ たこ八郎物語』(集英社, 1988) たこ八郎『たこでーす。―オレが主役でいいのかなぁー』(アス出版, 2000) 団鬼六『蛇のみちは』(幻冬舎、1997) 団鬼六『生き方下手』(文藝春秋, 2004) 濡木痴夢男『濡木痴夢男のおしゃべり芝居』(http://pl-fs.kir.jp/nureki/)


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<metakeywords>緊縛, 映画, 昭和</metakeywords>