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'''こばやし えいたく'''、1843年(天保14年)4月22日-1890年(明治23年) 5月27日 | '''こばやし えいたく'''、1843年(天保14年)4月22日-1890年(明治23年) 5月27日 | ||
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江戸から明治にかけての画家、浮世絵師。'''狩野派'''の狩野永悳(えいとく)の弟子から浮世絵師に転向した。海外向けの絵本「'''ちりめん本'''」の絵を多く描いたことから、海外での知名度も高い。和漢と西洋の技法が一体となった独自の画風。明治の人気雑誌「'''都の花'''」に描かれた[[小林永濯]]の責め絵を、戦後、[[伊藤晴雨]]が[[奇譚クラブ]]に紹介している<ref name="sonokoro">[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/01/023.html p28]</ref>。 | |||
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[http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english]、徳直、秀次郎、永躍、永瑞、霞堂、永洲、鮮斎、夢魚、梅花堂 | [http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english]、徳直、秀次郎、永躍、永瑞、霞堂、永洲、鮮斎、夢魚、梅花堂 | ||
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1877年(明治10年)、第一回内国勧業博覧会に出品した「天照大神、素戔嗚尊、問答」と「神武天皇命鳥ノ図」が花紋賞を受賞 | 1877年(明治10年)、第一回内国勧業博覧会に出品した「天照大神、素戔嗚尊、問答」と「神武天皇命鳥ノ図」が花紋賞を受賞 | ||
1887年(明治20年) | 1887年(明治20年)、[[月岡芳年]]と一緒に灯籠に歴史画を描く。 | ||
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1890年(明治23年) 5月27日、持病の肺病により没。 | 1890年(明治23年) 5月27日、持病の肺病により没。 | ||
==エピソード== | ==エピソード== | ||
*[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/01/023.html p28] | *[[伊藤晴雨]]『'''其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家'''』[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/01/023.html p28]で解説されている。それによると、小説雑誌「'''都の花'''」1888年(明治21年)10月-12月号に連載された依田学海「政党美談淑女の操<ref group="注">この芝居は1891年(明治24年)11月、浅草吾妻座で依田学海の済美館「男女合同改良演劇」により上演されている。</ref>」の第7幕を描いた「華族の女中が伊香保の山中で山駕に縛られて狼に喰われ様とする」が言及されている。 | ||
*明治初期に外国人向けの絵入り草紙「'''ちりめん本'''」がブームとなったが、その絵を[[小林永濯]]が多く担当していた。「竹取物語」「舌切雀(The Tongue Cut Sparrow)」「八頭の大蛇(The Eight-Headed Serpent)」などは有名な作品。 | |||
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2011年1月8日 (土) 21:27時点における最新版
こばやし えいたく、1843年(天保14年)4月22日-1890年(明治23年) 5月27日
概要
江戸から明治にかけての画家、浮世絵師。狩野派の狩野永悳(えいとく)の弟子から浮世絵師に転向した。海外向けの絵本「ちりめん本」の絵を多く描いたことから、海外での知名度も高い。和漢と西洋の技法が一体となった独自の画風。明治の人気雑誌「都の花」に描かれた小林永濯の責め絵を、戦後、伊藤晴雨が奇譚クラブに紹介している[1]。
別名
english、徳直、秀次郎、永躍、永瑞、霞堂、永洲、鮮斎、夢魚、梅花堂
略歴
1843年(天保14年)4月22日、日本橋新場の魚問屋、三浦屋吉三郎の子として生まれる。
1855年(安政2年)、狩野永悳(えいとく)に弟子入り。
1864年(元治元年)、日本橋通町に画室を構え、百鬼夜行の錦絵版下を描いたため、狩野派の中で問題となる。
1870年(明治3年)、浮世絵に転向。
1874年(明治7年)、挿絵の制作が活発化。
1877年(明治10年)、第一回内国勧業博覧会に出品した「天照大神、素戔嗚尊、問答」と「神武天皇命鳥ノ図」が花紋賞を受賞
1887年(明治20年)、月岡芳年と一緒に灯籠に歴史画を描く。
1888年(明治21年)、雑誌『都の花[注 1]』に責め絵を描く[1]。
1890年(明治23年) 5月27日、持病の肺病により没。
エピソード
- 伊藤晴雨『其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家』奇譚クラブ1953年(昭和28年)8月号, p28で解説されている。それによると、小説雑誌「都の花」1888年(明治21年)10月-12月号に連載された依田学海「政党美談淑女の操[注 2]」の第7幕を描いた「華族の女中が伊香保の山中で山駕に縛られて狼に喰われ様とする」が言及されている。
- 明治初期に外国人向けの絵入り草紙「ちりめん本」がブームとなったが、その絵を小林永濯が多く担当していた。「竹取物語」「舌切雀(The Tongue Cut Sparrow)」「八頭の大蛇(The Eight-Headed Serpent)」などは有名な作品。
- 小林永興(えいこう)は弟子で養子。