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[[画像:Dan.jpg|150px|thumbnail|団鬼六 (1931- 2011)]] '''だん おにろく'''、1931年(昭和6年)4月16日 - 2011年(平成23年)5月6日 ==概要== [[団鬼六]]のエッセイに『SMに市民権を与えたのは私です』と題された作品があるが、まさに「SM」というマニアの世界と一般社会をつなぐ窓口として活躍した重鎮である。1957年(昭和32年)、文藝春秋社主催の第11回オール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した『親子丼』が次席受賞、小説家としてのスタートを切る。翌年には[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で[[奇譚クラブ]]の懸賞小説に応募し、入選。1958年(昭和33年)には単行本『宿命の壁』『大穴』の出版、1960年(昭和35年)には『大穴』の松竹からの映画化、と幸先の良いスタートを切るが、新橋でのバー経営に失敗、1962年(昭和37年)には神奈川県三浦半島に移り英語教師となる。この頃、[[奇譚クラブ]]に[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で寄稿した『[[花と蛇]]』がマニアからの支持を得、1963年(昭和38年)から[[団鬼六]]と名を変えて連載を本格化する。[[須磨利之]]、[[吉田稔]]、[[辻村隆]]、[[千草忠夫]]との交流を深め、『[[花と蛇]]』の人気がますます高まる中、再度上京し洋画吹き替え会社『テレビ放送』社に入社する。おりしも[[ピンク映画]]が爆発的に人気を集め出した頃で、『テレビ放送』社で知り合った[[山邊信雄]]と共に、1965年(昭和40年)に『[[花と蛇]]』の映画化を実現する。[[山邊信雄]]が本格的に[[ピンク映画]]制作に乗り出すと共に、[[ヤマベプロ]]の脚本家として多くの[[ピンク映画]]や[[ピンク実演]]脚本を書いた。[[ヤマベプロ]]の所属であった[[谷ナオミ]]や[[たこ八郎]]と早くから交流があり、[[谷ナオミ]]は[[辻村隆]]を通じて[[奇譚クラブ]]でも紹介されている。1968年(昭和43年)に[[辻村隆]]を東映に紹介した頃から、関西テレビなどのマスコミに露出し、一般社会へのSMの紹介者として地位を確立していく。1969年(昭和44年)には[[ヤマベプロ]]から離れ、自ら[[鬼プロ]]を設立し、[[ピンク映画]]や[[ピンク実演]]の制作を始める。しかしながら[[ピンク映画]]そのものの全盛期は過ぎており、やがて[[鬼プロ]]は写真集や[[SMキング]]といった出版にシフトしていく。以後、SM雑誌の大ブームとなり、膨大な数のSM小説作品を発表、SM作家としての不動の地位を築き上げる。1974年(昭和49年)には、[[にっかつ|日活]]が[[谷ナオミ]]を主演として『[[花と蛇]]』を映画化し、ロマンポルでのSMブームが起こる。[[にっかつ|日活]]は、SM内容の作品には全て[[団鬼六]]の名前をタイトルに入れため、[[団鬼六]]=SMの図式がますます強固なものとなった。将棋はプロ級の腕をもち、将棋に関する著作も多数ある。1989年(平成元年)、断筆宣言後、しばらくは将棋に関するエッセイ等を執筆するにとどまったが、1995年(平成7年)に執筆活動を再開し、『真剣師・小池重明』『外道の群れ』『往きて還らず』などの長編小説を発表している。明るく優しい人柄から交友関係も幅広い。[[団鬼六]]自身はそれほどコアなSMマニアではないという意見が多い。実妹はジャズ歌手の[[黒岩三代子]]。2011年(平成23年)5月、食道がんにより永眠。 ==別名== [http://www.nawapedia.com/index.php?title=Oniroku_Dan Oniroku Dan]、黒岩幸彦(本名)、[[花巻京太郎]]、[[淡路周五]]、[[黒岩松次郎]]。 ==略歴== ''[[団鬼六]]は多くの自伝、あるいはそれに類するものを残しているが、明らかに創作と思われる部分も多く、年代に関してもぶれが多い。[[団鬼六]]の経歴については、[[大崎善生]]の[[団鬼六]]伝記『'''赦しの鬼'''』(「小説新潮」2011年7月号より連載)が、丁寧な取材に基づく信頼性の高いものと思われるので、不一致がある場合には、この伝記の記載を優先している。'' ===関西時代=== 1931年(昭和6年)4月16日、滋賀県彦根市四番町土橋の映画館「金城館」経営者の子としてに生まれる<ref name="hebi">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877284818?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877284818 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』([[幻冬舎]], 1997)]</ref>。父・黒岩信行はかつて映画の脚本家をめざしていた。母・元映画女優の[[香取幸枝]]<ref group="注">1927年(昭和2年)、離婚を機に、直木三十五に2年師事。直木はその頃映画に手を出しており、1928年(昭和3年)の『熱球は飛ぶ』(服部真砂雄監督)で主演女優。栗島すみ子と同期。その後、直木が岡田嘉子一座に世話。岡田座解散後、坂東寿三郎劇団の幹部女優となる。坂東劇団解散後、松竹の脚本部にいた信行と結婚。</ref>で再婚。幸枝はかつて直木三十五に師事。戸籍上の生まれは9月1日<ref name="sato">佐藤齊「作家団鬼六の誕生」in [http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)]</ref>。 1943年(昭和18年)、「金城館」は人手にわたり、一家は大阪東淀川区神崎川に移る。関西学院の中学部に入学<ref name="hebi"></ref>。 1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。 1950年(昭和25年)、関西学院大学・法学部入学。「[[奇譚クラブ]]」に傾倒する<ref name="hebi"></ref><ref name="net">[http://oniroku.net/ 団鬼六オフィシャルサイト]より(2010)</ref>。 ===小説家デビュー時代=== 1954年(昭和29年)、[[黒岩三代子]]が楽団ブルーコーツのオーディションに合格して上京し、ジャズ歌手としてデビュー<ref name="yurusi9">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第三回「小説新潮」2011年(平成23年)9月号</ref> 1955年(昭和30年)春、関西学院大学卒業と同時に上京<ref group="注">在学時に既に東京で[[日劇ミュージックホール]]の照明係等をアルバイトしていたため、一年間留学し、足りない単位を取るために関西に試験を受けに帰ってきたという記述もある。</ref>、幡ヶ谷の[[黒岩三代子]]のアパートに住む<ref name="yurusi9"></ref>。 1955年(昭和30年)、[[東京タイムズ社]]の映画雑誌『'''スターストーリー'''』に翻訳要員として入社(編集室は江古田の熊谷家<ref group="注">ロマンス社創業者の熊谷寛。1951年にロマンス社を倒産させ、古巣の東京タイムズ社に戻っていた。塩澤が居候していた。</ref>の離れ)。同僚に塩澤実信<ref group="注">後に週間大衆の編集長となり『隠花植物群』の執筆を団に依頼。</ref><ref name="shio">塩澤実信『団鬼六 二十代・放浪の日々』[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 [[幻冬舎]]『花は紅―団鬼六の世界』([[幻冬舎]], 1999)]</ref>。4ヶ月後に退社し[[日劇ミュージックホール]]の照明係等、職を転々<ref name="net"></ref>。 1956年(昭和31年)、文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した応募した『'''浪速に死す'''』が佳作。 1957年(昭和32年)12月、文藝春秋「オール讀物」主催の第11回オール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した『'''親子丼'''』が次席受賞となる<ref group="注">父親をモデルとした小説。火野葦平、梅崎晴生、浜本浩の講評が出る。</ref>。この頃[[香西昇]]と知り合う。 1958年(昭和33年)、[[奇譚クラブ]]の懸賞小説に[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で『'''お町の最後'''』を応募。7月号に『創作 お町の最後』として掲載。 1958年(昭和33年)11月10日、五月書房<ref group="注"> 『蛇のみちは』では「東西芸術社」という変名で出てくる。</ref>から[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で『'''宿命の壁'''』<ref group="注">『浪速に死す』『親子丼』『お化けの街』『女の業』『宿命の壁』5編が収録。</ref>出版。[[香西昇]]が発起人で出版パーティーが開かれる。 1958年(昭和33年)暮、五月書房からの2作目『'''大穴'''』が万単位の大ヒット。50万円を手にする<ref name="yurusi9"></ref>。その後、執筆依頼が殺到。 1959年(昭和34年)5月、新橋の国際マーケットの2階にバー『ミヨ(34)<ref group="注">妹の[[黒岩三代子]]の名に由来</ref>』を開く<ref name="hebi"></ref><ref name="shio"></ref>。このバーの前持ち主の妹が、最初の夫人[[板倉三枝子]]の兄だった。<ref name="yurusi9"></ref>。[[香西昇]]は激怒し絶交。 1960年(昭和35年)、2月<ref group="注">奥付が「印刷昭和34年、発行35年」となっており正確な発行年が不明。</ref>、風俗研究社の[[風俗クラブ]]創刊号に[[団鬼六|花巻京太郎]]『[http://nawa-art.com/etc/fc_196002/01/037.html 私刑される女]』発表。[[裏窓]]12月号に[[団鬼六|花巻京太郎]]『お町の危難』。 1960年(昭和35年)4月、『大穴』 が松竹から映画化<ref group="注">黒岩松次郎原作。内川清一郎監督。出演は杉浦直樹 芳村真理 花菱アチャコ 清川虹子 山茶花究。</ref>。 1961年(昭和36年)、[[奇譚クラブ]]1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196101/02/125.html p134]に『'''柔肌地獄'''』、2月号に『美しきが故に』。[[100万人のよる]]11月号に『美女が絶叫する変態観劇パーティー』[[裏窓]]3月号に『絵物語 Y座文芸部員』、12月号に『ある女の場合 浅草えれじい』。いずれも[[団鬼六|花巻京太郎]]名。 1961年(昭和36年)頃、東中野から幡ヶ谷三丁目に移り、両親を関西から呼び寄せる<ref name="hebi"></ref>。 1962年(昭和37年)、この頃、[[須磨利之]]と知り合う<ref name="net"></ref><ref group="注">1959年頃という記述もあるので確認が必要。</ref>。 1962年(昭和37年)、『[[花と蛇]]』1〜3回を花巻京太郎の名で[[奇譚クラブ]]8月9月合併号から連載。バー『ミヨ(34)』を閉じる。 ===英語教師時代=== 1962年(昭和37年)9月、[[板倉三枝子]]の勧めで三浦市三崎に移転。三崎中学の英語教師となる<ref group="注">国語教師の資格しかもっていなかったが、英語教師が不足していたので英語担当</ref><ref name="yurusi10">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第四回「小説新潮」2011年(平成23年)10月号</ref>。 1962年(昭和37年)頃、[[賀山茂]]と知り合う<ref group="注">『賀山茂の世界』では1959年(昭和34年)となっているが、2011年(昭和23年)、Webスナイパーの団鬼六追悼インタビューでは「新橋駅前の旧闇市の飲み屋で・・・ある日、隣で2、3度顔を見たことのある男から「よく会いますね」と声を掛けられて意気投合、これが高校教師時代の団鬼六だった。1962(昭和37)年頃のことである。」「三崎のうまい魚で一杯やろうということになって、三崎で酒を飲み交わした。団さんは、深酒するとすぐに寝ちゃうんだ。それから急速に仲良くなって、思いつくとそのまま水戸黄門のような旅に出かけた。金も持たない、予定なし、めくらめっぽうにね。団さんは風呂が好きで温泉のあるところに出掛けることが多かったな」 とある。また2012.6のUによるインタビュー時にも、「新橋の旧闇市の飲み屋で知り合い、最初はお互いにSMに趣味があることは知らない飲み友達だった。」「三崎で英語教師をしていた時代で、三崎にもしばしば遊びに行った」と述べている。</ref>。 1963年(昭和38年)2月4日、[[板倉三枝子]]と結婚。海南神社で挙式<ref name="yurusi10"></ref>。 1963年(昭和38年)頃、[[団鬼六]]が日吉の[[須磨利之]]を訪問している。 1963年(昭和38年)春頃、[[吉田稔]]が三崎まで訪問。『[[花と蛇]]』の続きを書いてくれるよう依頼。この時は依頼を断る<ref name="yurusi10"></ref>。 1963年(昭和38年)、再度[[吉田稔]]が[[辻村隆]]を同伴して三崎まで訪問。『[[花と蛇]]』の続きを書くことを決意<ref name="yurusi10"></ref>。 1963年(昭和38年)7月、『[[花と蛇]]』を[[団鬼六]]の名で[[奇譚クラブ]]7月号から再開。妻[[板倉三枝子]]に隠れながら中学校で執筆する生活が続く<ref name="yurusi10"></ref>。 1963年(昭和38年)7月、長男'''黒岩秀行'''誕生。 1963年(昭和38年)頃、三崎から少し離れた新築の家屋に引っ越し<ref name="yurusi10"></ref>。 1963年(昭和38年)11月、[[団鬼六|黒岩松次郎]]『銀座タコ部屋物語』in [[100万人のよる]] 1964年(昭和39年)、『[[花と蛇]]』第一部が完結(第15回)。臨時増刊号が出る。11月号から第2部。 ===シナリオライター時代=== 1965年(昭和40年)春、「テレビ放送」<ref group="注">社名の『テレビ放送』は[[山邊信雄]]もそう証言しているので間違いない。団鬼六のエッセイには『S企画』(『蛇のみちは』)等いろいろな変名が使われている。 「ヒッチコック劇場」「バークレー牧場」「ウルトラ二等兵」「恐妻天国」を担当([[山邊信雄|岸信太郎]]『団さんの苦しんだ時代』) 。</ref>に入社するため再度単身上京。幡ヶ谷の近くに単身アパートを借りる<ref name="hebi"></ref>。 1965年(昭和40年)年、[[山邊信雄]]と知り合い、最初のピンク映画台本を執筆<ref name="net"></ref><ref group="注">「山邊さんの知り合いの、エロダクションの社長Tが脚本家を捜しており、山邊さんが団さんに依頼し、できた脚本が山邊さんからTに渡り、このTが映画化して[[六邦映画]]で契約成立。」とある。その後、Tのために毎月脚本を書き、[[新高恵子]]、[[内田高子]]、[[松井康子]]が団の脚本で芝居、とある。</ref>。 1965年(昭和40年)年、[[山邊信雄]]と共に『[[花と蛇]]』を制作<ref group="注">[[ヤマベプロ]]制作、東京企画配給。詳細は[[1965年版「花と蛇」]])</ref>。 1966年(昭和41年)、[[板倉三枝子|夫人]]と長男三崎から上京直後、「テレビ放送」が倒産し<ref name="yurusi11">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第五回「小説新潮」2011年(平成23年)11月号</ref>、家族と共に神奈川県、真鶴に転居。ピンク映画の脚本依頼が殺到<ref name="net"></ref>。 1966年(昭和41年)頃、[[山邊信雄]]の紹介で[[谷ナオミ]]と出会う<ref name="net"></ref>。[[賀山茂]]に[[谷ナオミ]]を紹介する<ref name="kayama">『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。</ref>。 1967年(昭和42年)11月、長女、黒岩由起子<ref group="注"> 肥沼由起子。団鬼六事務所</ref>誕生。 1968年(昭和43年)、[[ヤマベプロ]]作品『続・[[花と蛇]] 赤い拷問』<ref group="注">[[松原次郎]]監督。出演は[[谷ナオミ]]、[[たこ八郎]]など。[[賀山茂]]が緊縛を手伝っている。</ref>。 1968年(昭和43年)、この頃既に[[ピンク実演]]の脚本を書き出している<ref name="sakaba">『鬼六談義 酒場の話』[[奇譚クラブ]]1968年(昭和43年)6月号</ref>。 1968年(昭和43年)、団の紹介で[[辻村隆]]が石井輝男監督の『徳川女刑罰史』(東映)で緊縛指導をしている。 1968年(昭和43年)、[[奇譚クラブ]]12月号、および翌1月号の2回に分けて『私本 [[伊藤晴雨]]物語』。 ===[[鬼プロ]]時代=== 1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にAGアパートを借り(本拠地は真鶴の自宅)、[[鬼プロ]]を設立。[[たこ八郎]]が住み込み。 1969年(昭和44年)5月、[[鬼プロ]]制作『女極道色欲一代』が公開<ref group="注">「中川プロ」制作との記述もあり。配給は[[ミリオン]]フィルム。監督:伊世亜夫。出演:里見孝二 水咲陽子 [[林美樹]] 長岡丈二 江島祐子 冬木京三 九重京司 三重街竜 園あけみ。</ref>。 1969年(昭和44年)、[[奇譚クラブ]]10月号「編集部だより」に「かねて三浦半島の一角に建築しておられた邸宅がこのほど完成」とある。 1969年(昭和44年)9月24日、関西テレビ「ナイトショー」の「サドの世界」に立川談志と共に出演。前田武彦、芳村真理<ref>[[奇譚クラブ]]1969年(昭和44年)12月号「サロン楽我記」</ref>。 1969年(昭和44年)10月、[[芳賀書店]]から『緊縛写真』シリーズ。緊縛は[[賀山茂]]。<ref group="注">『『緊縛写真4』は1970年(昭和45年)。『緊縛写真・別巻』1−5が1970年(昭和45年)に。別巻の写真は戸塚栄作。</ref>。 1969年(昭和44年)11月、鬼プロ第1回作品『女が鞭で嬲る時』公開<ref group="注">原作シナリオ名は「鬼女」</ref>。 1970年(昭和45年)7月、週刊ポスト7月31日号に「今週の人」として取り上げられ、「[[花と蛇]]」を紹介。 1970年(昭和45年)10月、[[東京三世社]]より[[SMセレクト]]創刊の相談を受ける。 1971年(昭和46年)1月18日、青島幸夫の「おひるのワイドショー」の「性でもうけるX氏」に出演<ref>奇譚クラブ1971年(1971年)4月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197104/197104_072.html p234]</ref>。 1971年(昭和46年)1月、[[ミリオン]]制作の『肉地獄』を監督。 1971年(昭和46年)1月、「週刊大衆」に『'''隠花植物群'''』を連載開始。 1971年(昭和46年)、AGアパート時代に、[[たこ八郎]]の紹介で[[杉浦則夫]]が[[鬼プロ]]に参加。[[たこ八郎]]の[[ピンク実演]]が始まる<ref name="u">[[杉浦則夫]]から[[U]]への私信(2010年4月12日)。</ref>。 1971年(昭和46年)、[[芳賀書店]]から『緊縛写真大全』。写真:篠山紀信、構成・イラストレーション:[[宇野亜喜良]]。緊縛は[[浦戸宏]]。 1971年(昭和46年)頃、[[鬼プロ]]4作目の映画を監督[[本木荘二郎]]で制作<ref name="hebi"></ref>。 1971年(昭和46年)、渋谷区道玄坂の新築の三信マンションに引っ越し。 1971年(昭和46年)7月、鈴木則文監督『温泉みみず芸者』(東映)に出演<ref group="注">他にも『温泉スッポン芸者』(鈴木則文監督、東映1972)、『桃子夫人の冒険』(小原宏裕監督、にっかつ1979、『ザッツ宴会 テイメント』(泉谷しげる・石井聰互監督、1984)『文学賞殺人事件 大いなる助走』(鈴木則文監督、アジャックス 1989)などに出演。</ref>。 1971年(昭和46年)、目黒区目黒三丁目(大鳥神社近く。)に部屋数7つ300坪の豪邸を借り、タコ劇団をこちらに移す。真鶴から家族を呼ぶ<ref group="注">[[杉浦則夫]]の記憶では、真鶴から再度三浦三崎に戻っていた。夫人の実家が三崎の材木商であった。</ref>。 1971年(昭和46年)、『続・[[花と蛇]]』が完結。 1972年(昭和47年)、[[SMキング]]創刊。週間大衆に『隠花植物群』を連載開始。『'''奇譚伊藤晴雨伝'''』([[三崎書房]])を発刊。 1972年(昭和47年)11月、『'''緋ぢりめん博徒'''』(東映、1972.11.21)(監督:[[石井輝男]]、原案:[[団鬼六]]、出演:中村英子 土田早苗 藤ひろ子 池玲子 山城新伍 菅原文太 司京子 小池朝雄)公開 1973年(昭和48年)、[[鬼プロ]]の社員数が8人になる<ref name="net"></ref><ref group="注">[[たこ八郎]]、[[杉浦則夫]]、[[田代幸三]]、[[中原研一]]、[[山根麗子]]など。</ref>。 ===SM作家時代=== 1974年(昭和49年)、にっかつ『[[花と蛇]]』が公開<ref group="注">主演は[[谷ナオミ]]。監督は小沼勝。緊縛指導は[[浦戸宏]]。</ref>。[[SMキング]]廃刊し[[鬼プロ]]も解散<ref name="net"></ref>。 1974年(昭和49年)、[[アブハンター]]に『[[花と蛇]]・完結編』連載開始。1975年までの12回。 1975年(昭和50年)8月、[[日劇ミュージックホール]]「ニンフェットは密がおすき」の構成<ref group="注">藤田敏雄、平田稲雄と。田中真理、瀬間千恵がゲスト。</ref><ref name="MH">『The Nichigeki Music Hall』(東宝, 1982)</ref>。 1976年(昭和51年)2月27日ー4月20日、[[日劇ミュージックホール]]に出演した[[谷ナオミ]]の「春の夜のおんな絵巻」を演出<ref name="net"></ref><ref group="注">全体で二部15景だが、その中の第一部第八景『'''大和路哀歌'''』が'''団鬼六'''の作・演出。第八景の出演は[[谷ナオミ]]、あきつ未来、夏ユリヤ、小川純、鶴見博。第一部の構成・演出;伊藤潤、第二部の作・選出:里吉しげみ、他の景での主な出演:松原美紀 小川純 舞悦子 浅茅けいこ 水原まゆみ あき竹城 コメディ天国など</ref>。 1976年(昭和51年)、[[東京三世社]]が団鬼六賞を創設<ref group="注">第一回鬼六賞の受賞者は姫野カオルコ。</ref>。 1977年(昭和52年)、世田谷区奥沢に転居<ref name="net"></ref>。大岡山に仕事場を借りる。 1979年(昭和54年)、[[谷ナオミ]]が『縄と肌』で引退。 1980年(昭和55年)、横浜の桜木町で売りに出ていたメリヤス工場を買い取り転居。SM道具などを陳列<ref name="hebi"></ref>。 1980年(昭和55年)、シングルレコード『あきかぜ』をリリース。サンケイスポーツに『鬼六あぶらんだむ』を連載開始。 1982年(昭和57年)、[[鬼プロ]]再結成<ref name="net"></ref>。 1983年(昭和58年)、最初の妻、三枝子と離婚。[[鬼プロ]]再解散<ref name="net"></ref>。 1983年(昭和58年)7月、[[日劇ミュージックホール]]の公演「演歌 IN エロス 女からおんなへ」二幕第六景の作・演出<ref group="注">[[賀山茂]]によると実際の演出は[[賀山茂]]がおこなった。</ref>。 1984年(昭和59年)6月、演歌歌手、宮本安紀子([[黒岩安紀子]])と再婚<ref group="注">1945年(昭和20)年1月12日東京生まれ。一時、[[団鬼六]]の秘書をしていたが、やがてテレビ神奈川に就職して管理職に。同局をやめて演歌歌手としてデビューした頃に結婚。</ref>。 1984年(昭和59年)9月、角川書店から『[[花と蛇]]』の初の文庫本化。全8巻。[[見城徹]]の企画。 1985年(昭和60年)、初の自伝『蛇の道は』(白夜書房)を刊行。 1986年(昭和61年)、桜木町の自宅前のささや旅館を9,000万円で買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。<ref name="hebi"></ref><ref group="注">三百坪で屋上にはビアガーテン。土地代総工費合わせて5億円。</ref>。 1986年(昭和61年)、父、'''黒岩信行'''が74才で永眠<ref name="yurusi3">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第九回「小説新潮」2012年(平成24年)3月号</ref>。 1987年(昭和62年)、『'''[[伊藤晴雨]]物語''']』(河出文庫)を発刊。次男、黒岩信彦誕生。 ===断筆時代=== 1989年(平成元年)、SM小説断筆宣言。将棋に関するエッセイに絞る。 1989年(平成元年)、日本アマチュア将棋連盟発行の機関紙『将棋ジャーナル』を買い取る。 1994年(平成6年)、『将棋ジャーナル』廃刊。多額の負債を抱える。 ===復活から現在まで=== 1995年(平成7年)1月、[[長池士]]の運営する、SMサークル『アムス』の分科会の一つとして『鬼六の会』が発足<ref group="注">元々は独立した団体であったが、1995年からアムスが管理運営(団の昔のHPより)。</ref>。 1995年(平成7年)、『'''真剣師・小池重明'''』(イーストプレス)で執筆活動を再開。 1995年(平成7年)、東京・浜田山の借家に移る。 1996年(平成8年)、[[伊藤晴雨]]の伝記『'''外道の群れ'''』(朝日ソノラマ)。 1997年(平成9年)、脳梗塞で入院。 1999年(平成11年)10月、かつての[[鬼プロ]]復活を意識した「花紅舎」が設立される<ref group="注">代表取締役:坂本利建、取締役:[[中原研一]]、黒岩幸彦、[[黒岩安紀子]]、大石実。東京都千代田区外神田2丁目2番19号。2003年3月には代表取締役:阪本利建、取締役:黒岩幸彦、[[黒岩安紀子]]。東京都渋谷区広尾1丁目9番20号 TM広尾6F。同7月には新宿区早稲田町83 SOビル B1。</ref>。 1999年(平成11年)、CD『団鬼六 東海林太郎を唄う』をリリース。 2002年(平成14年)、[[伊藤晴雨]]の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。 2002年(平成14年)、『紅姉妹』(シネマジック)を監督。原作は「肉体の賭け」。 2004年(平成16年)、東映ビデオ『[[花と蛇]]』(監督:[[石井隆]]、緊縛指導:[[有末剛]]、主演:杉本彩) が公開。 2006年(平成18年)、人工透析拒否宣言<ref group="注">ただし、翌年には医師の説得で受け入れる。</ref>。 2009年(平成21年)7月、特攻隊員と少女の恋愛小説『'''往きて還らず'''』(新潮社) 2010年(平成22年)、食道がんであることを公表<ref>『残日録・春-我、ガンになりたり』「小説新潮」2010年(平成22年)5月号。</ref>。 2010年(平成22年)、[[無双舎]]、季刊「悦」が「[[団鬼六]]賞」創設<ref group="注">選考委員は団鬼六、重松清、高橋源一郎、睦月影郎。</ref>。第1回受賞は[[花房観音]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/486408467X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=486408467X 花祀り]'''』。 2011年(平成23年)4月10日、3月11日の東日本大震災後初のブログの書き込み「日本人は決してへこたれない、立派な国民だ」<ref group="注">ブログにアップされたのは18日</ref>。 2011年(平成23年)5月6日、食道がんにより没。 2011年(平成23年)5月16日、港区増上寺にて告別式。弔辞は[[見城徹]]、米長邦雄<ref group="注">日本将棋連盟会長</ref>、[[谷ナオミ]]。 2012年(平成24年)2月、第2回「[[団鬼六]]賞」、大賞:[[うかみ綾乃]]『蝮の舌』、優秀作:沢里裕二『淫府再興』 ==エピソード== *高校時代は剣道部に所属。その時の師範から試刀術を学んだことが、後の刀剣コレクションに影響する。 *横浜市出身の力士で1992年(平成4年)東前頭4枚目にまで上がった鬼雷砲を幕下時代から応援しており、1991年(平成3年)の入幕時の記念祝賀会を主催している。 *[[千草忠夫]]は熱烈な『[[花と蛇]]』の支持者で、団が三崎で英語教師をしていた頃、三崎まで訪問。その後、夏休み毎に三崎を訪問し、1週間ばかり団の家に泊まっていた<ref name="kyotaro">西村京太郎・団鬼六『昭和ヒトケタ世代の現役宣言』[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 [[幻冬舎]]『花は紅―団鬼六の世界』pp42-pp52 ([[幻冬舎]], 1999)]</ref>。 *映画製作で熱海の「起雲閣」をよく使った<ref>堀江珠喜『団鬼六の耽美世界」in [http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)]</ref>。 *立川談志の立川一門に属し、'''立川鬼六'''という名をもつ。 ==代表作== ===[[花と蛇]]=== [[花と蛇]]のページにまとめている。 ===自伝=== *[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J9ABNS?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J9ABNS '''鬼六談義''']』([[芳賀書店]], 1970) *[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766903072?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4766903072 '''鬼六あぶらんだむ''']』(笠倉出版社, 1981)<ref group="注">1986年に勁文社から文庫化</ref> *[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766922107?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4766922107 '''SMに市民権を与えたのは私です''']』(勁文社, 1995) *[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877284818?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877284818 '''蛇のみちは―団鬼六自伝''']』([[幻冬舎]], 1997) *[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/416322730X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=416322730X '''生きかた下手''']』(2004, 文藝春秋) *[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4344980107?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4344980107 '''快楽なくして何が人生''']』(2006, [[幻冬舎]]) *[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062160420?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4062160420 '''悦楽王''']』(2010, 講談社) *[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/406216552X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=406216552X '''死んでたまるか 自伝エッセイ''']』(2011, 講談社) ===[[団鬼六の主な小説]]=== [[団鬼六の主な小説]]にまとめてある。 ===写真集=== *[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真'''』([[芳賀書店]], 1969.10)(緊縛:[[賀山茂]]) *[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真2'''』([[芳賀書店]], 1969) *[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真3'''』([[芳賀書店]], 1969) *[[団鬼六]]監修『'''SM写真集 薔薇の鏡'''』(書肆そうび館, 1969.8.1)(販売:[[芳賀書店]]、文:[[団鬼六]] 別府新 塩川章、装幀:ばん・やすき、レイアウト:剣未知子、写真:砂地好美、発行者:章田芳雄) *[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真4'''』([[芳賀書店]], 1970) *[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻1'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]]) *[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻2'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]]) *[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻3'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]]) *[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻4'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]]) *[[団鬼六]]監修『'''地獄花1'''』([[耽美館]], 1970)(写真:[[小川源次郎]]、製作:[[鬼プロ]]、モデル:瀬川ルミ、川村冬子、瀬戸由紀、三田洋子) *[[団鬼六]]監修『'''地獄花2'''』([[耽美館]], 197?)(写真:[[賀山茂]]、製作:[[鬼プロ]]、モデル:藤沢ナナ、島江梨子、沖さとみ、渕上啓子、村西房江) *[[団鬼六]]監修『'''地獄花3'''』([[耽美館]], 1971)(写真:[[戸塚栄作]]、製作:[[鬼プロ]]) *[[団鬼六]]監修『'''地獄花4'''』([[耽美館]], 1971)(写真:[[黒羽京太郎]]、製作:[[鬼プロ]]) *[[団鬼六]]監修『'''地獄花5'''』([[耽美館]], 1971)(写真:吉岡順三郎、製作:[[鬼プロ]]) *[[団鬼六]]監修『'''愛奴1'''』([[耽美館]], 1972)(写真:[[白濱静麿]]、製作:[[鬼プロ]]) *[[団鬼六]]『'''鬼六写真メモ SM耽美文学別巻1'''』([[耽美館]], 1972) *[[団鬼六]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4898292410/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4898292410 異形の遊戯]'''』(ワニマガジン, 1996.7.10)(発行人:平田昌兵、アートディレクション:武田和久、写真:山崎シンジ、緊縛師:[[明智伝鬼]]、[[長池士]]、絵:[[春日章]]、[[小妻要]]、[[春川ナミオ]]、モデル:小川実那子他) ===[[鬼六談義]]=== [[鬼六談義]]のページに移行。 ===団研究本=== *[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J7K89M?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J7K89M 平岡正明・岡庭昇『団鬼六・暗黒文学の世界』(三一書房, 1982)] *[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 『花は紅―団鬼六の世界』([[幻冬舎]], 1999)] *[http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)] ===映画=== *『'''大穴'''』(松竹, 1960)(監督:内川清一郎、脚本:菊島隆三、原作:[[団鬼六|黒岩松次郎]]、音楽:佐藤勝、撮影:太田喜晴、美術:水谷浩、出演:杉浦直樹 芳村真理 花菱アチャコ 清川虹子 山茶花究 上田吉二郎 左卜全) *その他、[[ヤマベプロ]]、[[鬼プロ]]、[[花と蛇]]、[[谷ナオミ]]などに映画関係の情報。 ===[[奇譚クラブ]]の映画シナリオ=== [[団鬼六の映画シナリオ]]に移動。 ===芝居=== *[[花と蛇]]の舞台化は[[花と蛇]]のページ参照。 *北区つかこうへい劇団『'''往きて還らず'''』(原作:[[団鬼六]]、脚本:石川朝子、演出:逸見輝羊、出演:木下智恵、吉田学、小川智之、杉山圭一、北田理道) 2010年(平成22年)12月16日ー19日 於 北区滝野川会館大ホール<ref group="注">企画後につかこうへいはがんで死去。残った劇団員が公演を実現した。</ref> ==引用文献== <references/> ==注釈== <references group="注"/> ==つながり== [[吉田稔]] [[須磨利之]] [[辻村隆]] [[賀山茂]] [[山邊信雄]] [[谷ナオミ]] [[杉浦則夫]] [[たこ八郎]] [[有末剛]] [[田代幸三]] [[本木荘二郎]] [[中原研一]] [[長池士]] [[山根麗子]] [[リッキー梶原]] ==お役たちweb== *[http://oniroku.net/ 団鬼六オフィシャルサイト] *[http://www.oni6.com/ 旧団鬼六オフィシャルサイト] *[http://pochi74.hp.infoseek.co.jp/hanahebi00X.htm 「花と蛇」年代記] *[http://homepage2.nifty.com/074/hana201.htm 団鬼六長編作品リスト] *[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10361575543.html 映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六] *[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店] <metakeywords>団鬼六,SM,昭和SM,奇譚クラブ,sm小説</metakeywords> {{DEFAULTSORT:たんおにろく}} [[Category:文筆家]] [[Category:仕掛人]] [[Category:総索引]]
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