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==歴史== 1896年(明治29年)6月、東京・本郷の春木座での『'''日清戦争・夜討之仇譚'''』の看護婦の拷問シーンが話題となり、同種の拷問芝居がブームになる<ref name="ero">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4787270540?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4787270540 下川耿史『日本エロ写真史』(青弓社, 1995)]</ref><ref group="注">男優が女装で演じていた。[[伊藤晴雨]]もこの芝居を観ている</ref>。 1952年(昭和27年)、[[奇譚クラブ]]11月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195211/01/059.html p64]の朝見速夫『'''ストリップ変態記'''』でサドマゾを取り入れたストリップショーのことが紹介。 1953年(昭和28年)6月4日、[[伊藤晴雨]]が市川市鈴木演芸場で『'''責めの劇団'''』の第1回公演<ref group="注">[[濡木痴夢男]]はこの公演を観ている。演目は鈴木泉三郎脚本の「火あぶり」(これは晴雨がモデルで[[肉体の門|空気座]]が東横デパートの劇場で上演したある(「奇譚クラブの絵師たち」より)。</ref>。7月11日文京区東片町中村座で第2回公演<ref group="注">江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場、とある。入場料300円。</ref><ref group="注">[[KK通信]]1953年(昭和28年)第13号</ref>。 1954年(昭和29年)、[[奇譚クラブ]]3月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195404/01/013.html グラビア]に『'''捕物の舞台写真'''』が紹介。 1955年(昭和30年)、[[奇譚クラブ]]2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195502/03/269.html p283]に浅草の大衆劇場で上演されていた'''音羽照子一座'''の責め芝居に関する観劇レポート。[[伊藤晴雨]]が関係したような記述。 1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)すぎに「残酷ショー」が流行る。ロベルト秋山(=ローズ秋山?)、伊藤残酷ショー(=伊藤一夫?)。鉄の五郎ショーとか次々現れた<ref name="50nen">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4380992047?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4380992047 みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)]</ref><ref group="注">例えば季節風書店『裸か美グラフ』1962年(昭和37年)12月号のグラビアには、「バーレスクの残酷場面」と題し、いろいろな緊縛シーンの舞台写真が出ている。「チン版・羅生門」「人のいい痴漢」「誰よりもギャラを愛す」など</ref>。 1964年(昭和39年)年頃、[[向井一也]]が[[青木順子]]ショウを東京や名古屋で。 1964年(昭和39年)、[[辻村隆]]の『SMカメラハント』第1回目のモデルが[[青木順子]]。 1965年(昭和40年)頃、[[深井俊彦|深井]]が「残酷ショー」を始める。全盛期は30組ほど存在<ref name="sayama">佐山淳『外人関西ヌードショウ』新劇、1973年(昭和48年)9月号</ref>。 1965年(昭和40年)頃、[[ローズ秋山]]が「残酷ショー」で有名に。 1966年(昭和41年)、ピンク実演の走りとされる[[SM聖地|カシバシ座]]での劇団「[[赤と黒]]」の芝居。<ref name="seijin">『[[成人映画]]』1968年(昭和43年)4月号(通算28号)の「ピンク実演:決定的瞬間を生で見る迫力」より</ref>。 1967年(昭和42年)、[[風俗奇譚]]9月号に『劇団[[赤と黒]]「拷問くの一」より』 1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号, p246に「[[青木順子]]のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。 1967年(昭和42年)、[[SM聖地|銀座地球座]]が邦画名画座から[[ピンク映画]]上映館に路線変更すると同時に、[[ピンク実演]]を開始。こけら落としに内田高子、[[松井康子]]、[[谷ナオミ]]が舞台挨拶<ref name="seijin"></ref>。 1968年(昭和43年)、[[向井一也]]が劇団「新しい波」の設立<ref>『サロン楽我記』奇譚クラブ 1968(S43)年11月号</ref><ref group="注">連絡先は、新宿の[[SM聖地|実験小劇場モダンアート]]、あるいは名古屋の[[SM聖地|今池アングラ劇場]]内の向井常、とある。</ref>。 1968年(昭和43年)、[[奇譚クラブ]]7月号の「最近の縛り演劇・映画から」で[[忍妙子]]の「地獄絵ショー」が紹介。 1968年(昭和43年)、既に[[SM聖地|カシバシ座]]でのピンク実演に劇団「炎」<ref group="注">青木マリ、水咲陽子などが出演。[[濡木痴夢男]]が「炎」のためにいくつか脚本を書いている。</ref>が加わっている<ref name="seijin"></ref>。 1969年(昭和44年)、[[奇譚クラブ]]1月号,[http://nawa-art.com/backnumber/1960/196901/196901_063.html p233]「奇クサロン」に[[谷ナオミ]]の実演の観劇レポートが<ref group="注">渋谷のC座。[[ヤマベプロ]]作『人妻地獄』で団鬼六脚本。看板には「[[奇譚クラブ]]連載<[[花と蛇]]>より」と。三景。[[谷ナオミ]]、鈴木通人、南弘二、竹原あこ。併映は『鞭と淫獣』。</ref>。 1969年(昭和44年)10月28日、[[ローズ秋山]]が[[辻村隆]]、福田和彦と11PM「サド侯爵もびっくり」に出演<ref>[[奇譚クラブ]]1970年(昭和45年)1月号号「サロン楽我記」</ref>。 1970年(昭和45年)、[[奇譚クラブ]]2月号, p234に[[ローズ秋山]]が「大阪ダイコー、東大阪市のコーセー劇場で公演」とある。 1970年(昭和45年)、[[奇譚クラブ]]9月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197009/197009_083.html p247]に池袋アートシアターでの人間座「奴隷」の観劇レポート。 1971年(昭和46年)、[[浅草フランス座|浅草東洋劇場]]にいた[[杉浦則夫]]が[[団鬼六]]の鬼プロに参加。[[たこ八郎]]が中心の鬼プロピンク実演の第1回目の制作に関わる。 1972年(昭和47年)2月、[[玉井敬友]]が関西で劇団スキャンダルを旗揚げ。 1973年(昭和48年)頃、[[浅草フランス座]]でも前衛舞踏系の踊りやSM系のショーがおこなわれる<ref name="kid">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101225125?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4101225125 ビートたけし『浅草キッド』(新潮社, 1992)]</ref>。 1974年(昭和49年)頃、[[向井一也]]の「オリジナルの会」<ref group="注">例えば[[奇譚クラブ]]1974年11月号[http://nawa-art.com/backnumber/1970/197411/02/130.html p233]に「オリジナルの会主催「矛盾の告白」の案内(10.28-31,[[SM聖地|シアター・グリーン]])、[http://nawa-art.com/backnumber/1970/197411/02/139.html p242]に8月公演の後書きがある。</ref>を開催しており、[[長田英吉]]が影響を受ける。 1974年(昭和49年)、[[桜田伝次郎]]、黒川真由美が劇団世界劇場([[GSG企画|GSG]])旗揚げ<ref group="注">池袋のシアターグリーン、浅草の木馬座、目黒のアスベスト館、京大の西武講堂、茗荷谷の林泉寺などで公演。</ref>。 1974年(昭和49年)8月、[[奇譚クラブ]]12月号の「[http://nawa-art.com/backnumber/1970/197412/03/228.html 奇クサロン]」に舟橋一郎「[[向井一也]]・[[青木順子]]の『サディストの告白』を観て」が掲載。 1974年(昭和49年)8月、[[奇譚クラブ]]12月号の「[http://nawa-art.com/backnumber/1970/197412/03/237.html 編集部便り]」に「大阪キタのサパークラブ『スキャンダル』で([[向井一也]]氏の)『サディストの告白』が8月末に公開」とある。 1976年(昭和51年)春、[[玉井敬友]]が六本木に劇団「シアタースキャンダル」設立。 1977年(昭和52年)、[[桜田伝次郎]]、黒川真由美、桜田信で[[GSG企画]]<ref group="注">杉並区西荻南2-19-10</ref>を発足。西荻窪、大塚の『[[SM聖地|SMボンバー]]』、中野の『東京SM倶楽部』で[[GSG企画]]のSMショー<ref name="hentai">[[北原童夢]]『明智伝鬼と戦後日本のSM史』in [http://www.amazon.co.jp/gp/product/479661771X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=479661771X 『変態さんがいく』(別冊宝島編集部, 2000)]</ref>。 1978年(昭和53年)、西荻窪のビルの地下で行われていた[[GSG企画]]のショーで、[[明智伝鬼]]と[[桜田伝次郎]]、[[桜田信]]が出会う。ショーの後、[[明智伝鬼]]が縛りのテクニックを披露<ref name="hentai"></ref>。 1978年(昭和53年)頃、道頓堀劇場の制作部長だった志賀直樹がみのわひろおを通じて[[長田英吉]]を説得し、SMショーが始まる<ref group="注">「SMとは何か」「SM調教の歴史と実験」など、けっこうおかたいテーマを作って舞台化。が、しだいに浣腸、鞭、ローソク、吊るしと過激化。</ref><ref name="50nen"></ref>。 1978年(昭和53年)11月1日、[[玉井敬友]]のシアタースキャンダルが「春風座」でSMショー。 1980年(昭和55年)頃、[[明智伝鬼]]が「特別会員の会」を組織<ref name="hentai"></ref>。 1985年(昭和60年)、池袋のスカイ劇場サヨナラ特別公演で「[[根暗童子]]夫妻のSMショー」<ref>FOCUS, 1985(昭和60)年9/6号</ref>。 1987年(昭和62年)7月、[[明智伝鬼]]がスタジオファントムを組織<ref name="epi">エピキュリアン</ref>。中野クイーンで定期的にショーを<ref name="hentai"></ref>。 1987年(昭和62年)9月、[[明智伝鬼]]が「SM実験劇場スタジオファントム」を旗揚げ。最初月に1回、88.1より月2回の定例公演として97年6月までの10年間の長期公演<ref name="epi">エピキュリアン</ref>。 1989年(昭和64年)、[[明智伝鬼]]が一般会員撮影会を発足。不定期に野外撮影会。その後「SFの会」「伝鬼の会」など四つの会を主宰<ref name="epi"></ref>。 1998年(平成10年)頃から、新宿[[ロフトプラスワン]]で[[長田英吉]]、[[早乙女宏美]]、[[明智伝鬼]]、[[乱田舞]]、[[神浦匠]]、[[ミラ狂美]]、[[立花マリ]]、[[蕾火]]等がショーを開催。 2003年(平成15年)11月1日、[[SM聖地|ショーアップ大宮]]にて[[川上譲治]]企画による『ザ・SM』シリーズが始まる。 2005年(平成17年)3月11日−20日、[[SM聖地|DX歌舞伎町]]にて『スーパーDX SM伝説 誕生篇』。 == 引用文献== <references/> ==注釈== <references group="注"/> == お役たちweb== ==つながり== {{DEFAULTSORT:SMしょーのれきし}} [[Category:昭和SM文化]] [[Category:総索引]]
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