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SMpedia - 利用者の投稿記録 [ja]
2024-03-28T12:56:21Z
利用者の投稿記録
MediaWiki 1.37.1
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テンプレート:SMペィア紹介文
2017-10-22T02:45:08Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div><p> '''[[SMペディア]]'''は、戦後日本のSM文化の誕生と展開の過程を歴史として正確に後世へと伝え、同時にこれからのSM文化のさらなる発展の一助となるために設立された、非営利のデータベースです。<br /><br />
SM文化に直接関わる人物・事項のみならず、間接的にも影響を与えたエロ文化を広く取り扱っております。SMと関連が薄そうなページもありますが、何らかの形でSM文化の形成に影響を与えたと判断した物ですので、ご了承ください。<br /><br />
基本的には過去の人物、出来事を中心にデータを集めていますが、現在のものもランダムにデータ入力しています。常に現在進行形で作業が行われておりますので、完成という姿はありません。情報が不十分なページが多くありますが、ご了解ください。<br /><br />
[[SMペディア]]2009年11月3日に設立され、現在まで [[Special:Statistics|{{NUMBEROFARTICLES}}]] 本の記事が登録されています。<span style="font-size:70%">([[SMペディア]]のトップページ絵は[[喜多玲子]]の作品を使わせていただいております。)</span><br />
</p></div>
ボテル
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人間探究
2017-07-24T05:41:08Z
<p>ボテル: /* 主な出来事 */</p>
<hr />
<div>[[画像:Ningentankyu.jpg|250px|thumbnail|人間探究 1950年(昭和25年)5月創刊号]]<br />
'''にんげんたんきゅう'''<br />
== 概要 ==<br />
「文化人の性科学誌」として[[高橋鐵]]が中心となり[[第一出版社]]から1950年(昭和25年)5月に創刊された月刊誌。[[第一出版社]]は、『'''[[人間探究]]'''』を発行するために、[[高橋鐵]]が『'''改造'''』の編集長らと共に作ったとされている。[[カストリ雑誌]]最後期の雑誌として分類されるケースもある。<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1950年(昭和25年)5月〜1953年(昭和28年)8月、[[第一出版社]]から[[探究社]]へ。<br />
== 発行人・編集人==<br />
編集人:[[奥田十三生]]<br />
<br />
発行人:[[酒井孝]]、[[堀井清]]<br />
<br />
編集・発行人:[[石川四司]] (第14号,第22号)<br />
<br />
== 主な出来事==<br />
1950年(昭和25年)、5月号創刊号。編集人:[[奥田十三生]]、発行人:[[酒井孝]]で定価70円。[[高橋鐵]]が主幹<ref name="furuhon11">[http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20091126/1259161470 古本夜話11 謎の訳者帆神煕と第一出版社]</ref>。<br />
<br />
1950年(昭和25年)9月、[[坂ノ上言夫]]『'''生殖伝説について'''』[[人間探究]]1950年(昭和25年)9月号, [http://nawa-art.com/etc/195009/015.html p13]<br />
<br />
1951年(昭和26年)、[[伊藤晴雨]]がエッセイを連載開始。1952年まで。<br />
<br />
1951年(昭和26年)5月、人間探究 第11号 増刊 『'''性と犯罪特集'''』発行。<br />
<br />
1951年(昭和26年)9月、人間探究 第16号 増刊 『'''日本性人物史'''』発行。<br />
<br />
1952年(昭和27年)2月15日、人間探究 第21号。<br />
:[[伊藤晴雨]]『'''今昔○談(ぼくのおもいでばなし)<ref group="注">「○」は「竹冠に愚」の創作漢字で、[[式亭三馬]]が用いていた。</ref>'''』連載開始。<br />
<br />
1952年(昭和27年)2月15日、人間探究 第22号。<br />
:[[大宅壮一]]、[[比企雄三]]、[[藤澤衛彦]]、<br />
<br />
1952年(昭和27年)、編集上の食い違いから[[高橋鐵]]が去る<ref name="furuhon11"></ref>。<br />
<br />
1953年(昭和28年)6月1日、六・七月合併号。発行所は[[探究社]]。編集・発行人は[[奥田十三生]]。定価95円。<br />
<br />
1953年(昭和28年)8月、通算34号<ref group="注">別冊も含めて。</ref>で終刊<ref name="furuhon11"></ref>。<br />
<br />
==主な執筆陣==<br />
[[高橋鐵]]<br />
[[伊藤晴雨]]<br />
[[斎藤昌三]]<br />
[[武野藤介]]<br />
[[宮武外骨]]<br />
[[坂ノ上言夫]]<br />
吉田機司<br />
吉田精一<br />
雪吹周<br />
小野常徳<br />
岡田甫<br />
岡本薫<br />
神近市子<br />
小倉ミチヨ<br />
青山繁<br />
森銑三<br />
伏見沖<br />
白銀万雅野<br />
<br />
==表紙画==<br />
[[浜田稔]](昭和27年11月号)<br />
<br />
== エピソード==<br />
*創刊号の内容は「グラビア 人類性生活五万年史・裸体美をどう見る?」「マルクス=レーニンの性生活」[[高橋鐵]]「性行為に於ける表情の研究(性感度の鑑別法)」「討論会 社会問題としての性=神近市子・羽仁説子・[[高橋鐵]]」など。<br />
*同時期に、[[高橋鐵]]は[[あまとりあ社]](=[[久保書店]])から『'''[[あまとりあ]]'''』を出していた。<br />
*1952年(昭和27年)に『'''秘版艶本の研究''' 別冊[[人間探究]]』が2冊出ている。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
{{DEFAULTSORT:にんげんたんきゅう}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1950年代の雑誌]]<br />
[[Category:カストリ雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%9B%A3%E9%AC%BC%E5%85%AD&diff=47703
団鬼六
2017-07-23T23:38:26Z
<p>ボテル: /* 映画 */</p>
<hr />
<div>[[画像:Dan.jpg|150px|thumbnail|団鬼六 (1931- 2011)]]<br />
'''だん おにろく'''、1931年(昭和6年)4月16日 - 2011年(平成23年)5月6日<br />
<br />
==概要==<br />
[[団鬼六]]のエッセイに『SMに市民権を与えたのは私です』と題された作品があるが、まさに「SM」というマニアの世界と一般社会をつなぐ窓口として活躍した重鎮である。1957年(昭和32年)、文藝春秋社主催の第11回オール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した『親子丼』が次席受賞、小説家としてのスタートを切る。翌年には[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で[[奇譚クラブ]]の懸賞小説に応募し、入選。1958年(昭和33年)には単行本『宿命の壁』『大穴』の出版、1960年(昭和35年)には『大穴』の松竹からの映画化、と幸先の良いスタートを切るが、新橋でのバー経営に失敗、1962年(昭和37年)には神奈川県三浦半島に移り英語教師となる。この頃、[[奇譚クラブ]]に[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で寄稿した『[[花と蛇]]』がマニアからの支持を得、1963年(昭和38年)から[[団鬼六]]と名を変えて連載を本格化する。[[須磨利之]]、[[吉田稔]]、[[辻村隆]]、[[千草忠夫]]との交流を深め、『[[花と蛇]]』の人気がますます高まる中、再度上京し洋画吹き替え会社『テレビ放送』社に入社する。おりしも[[ピンク映画]]が爆発的に人気を集め出した頃で、『テレビ放送』社で知り合った[[山邊信雄]]と共に、1965年(昭和40年)に『[[花と蛇]]』の映画化を実現する。[[山邊信雄]]が本格的に[[ピンク映画]]制作に乗り出すと共に、[[ヤマベプロ]]の脚本家として多くの[[ピンク映画]]や[[ピンク実演]]脚本を書いた。[[ヤマベプロ]]の所属であった[[谷ナオミ]]や[[たこ八郎]]と早くから交流があり、[[谷ナオミ]]は[[辻村隆]]を通じて[[奇譚クラブ]]でも紹介されている。1968年(昭和43年)に[[辻村隆]]を東映に紹介した頃から、関西テレビなどのマスコミに露出し、一般社会へのSMの紹介者として地位を確立していく。1969年(昭和44年)には[[ヤマベプロ]]から離れ、自ら[[鬼プロ]]を設立し、[[ピンク映画]]や[[ピンク実演]]の制作を始める。しかしながら[[ピンク映画]]そのものの全盛期は過ぎており、やがて[[鬼プロ]]は写真集や[[SMキング]]といった出版にシフトしていく。以後、SM雑誌の大ブームとなり、膨大な数のSM小説作品を発表、SM作家としての不動の地位を築き上げる。1974年(昭和49年)には、[[にっかつ|日活]]が[[谷ナオミ]]を主演として『[[花と蛇]]』を映画化し、ロマンポルでのSMブームが起こる。[[にっかつ|日活]]は、SM内容の作品には全て[[団鬼六]]の名前をタイトルに入れため、[[団鬼六]]=SMの図式がますます強固なものとなった。将棋はプロ級の腕をもち、将棋に関する著作も多数ある。1989年(平成元年)、断筆宣言後、しばらくは将棋に関するエッセイ等を執筆するにとどまったが、1995年(平成7年)に執筆活動を再開し、『真剣師・小池重明』『外道の群れ』『往きて還らず』などの長編小説を発表している。明るく優しい人柄から交友関係も幅広い。[[団鬼六]]自身はそれほどコアなSMマニアではないという意見が多い。実妹はジャズ歌手の[[黒岩三代子]]。2011年(平成23年)5月、食道がんにより永眠。<br />
<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Oniroku_Dan Oniroku Dan]、黒岩幸彦(本名)、[[花巻京太郎]]、[[淡路周五]]、[[黒岩松次郎]]。<br />
<br />
==略歴==<br />
''[[団鬼六]]は多くの自伝、あるいはそれに類するものを残しているが、明らかに創作と思われる部分も多く、年代に関してもぶれが多い。[[団鬼六]]の経歴については、[[大崎善生]]の[[団鬼六]]伝記『'''赦しの鬼'''』(「小説新潮」2011年7月号より連載)が、丁寧な取材に基づく信頼性の高いものと思われるので、不一致がある場合には、この伝記の記載を優先している。''<br />
<br />
===関西時代===<br />
1931年(昭和6年)4月16日、滋賀県彦根市四番町土橋の映画館「金城館」経営者の子としてに生まれる<ref name="hebi">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877284818?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877284818 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』([[幻冬舎]], 1997)]</ref>。父・黒岩信行はかつて映画の脚本家をめざしていた。母・元映画女優の[[香取幸枝]]<ref group="注">1927年(昭和2年)、離婚を機に、直木三十五に2年師事。直木はその頃映画に手を出しており、1928年(昭和3年)の『熱球は飛ぶ』(服部真砂雄監督)で主演女優。栗島すみ子と同期。その後、直木が岡田嘉子一座に世話。岡田座解散後、坂東寿三郎劇団の幹部女優となる。坂東劇団解散後、松竹の脚本部にいた信行と結婚。</ref>で再婚。幸枝はかつて直木三十五に師事。戸籍上の生まれは9月1日<ref name="sato">佐藤齊「作家団鬼六の誕生」in [http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)]</ref>。<br />
<br />
1943年(昭和18年)、「金城館」は人手にわたり、一家は大阪東淀川区神崎川に移る。関西学院の中学部に入学<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。<br />
<br />
1950年(昭和25年)、関西学院大学・法学部入学。「[[奇譚クラブ]]」に傾倒する<ref name="hebi"></ref><ref name="net">[http://oniroku.net/ 団鬼六オフィシャルサイト]より(2010)</ref>。<br />
<br />
===小説家デビュー時代===<br />
1954年(昭和29年)、[[黒岩三代子]]が楽団ブルーコーツのオーディションに合格して上京し、ジャズ歌手としてデビュー<ref name="yurusi9">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第三回「小説新潮」2011年(平成23年)9月号</ref><br />
<br />
1955年(昭和30年)春、関西学院大学卒業と同時に上京<ref group="注">在学時に既に東京で[[日劇ミュージックホール]]の照明係等をアルバイトしていたため、一年間留学し、足りない単位を取るために関西に試験を受けに帰ってきたという記述もある。</ref>、幡ヶ谷の[[黒岩三代子]]のアパートに住む<ref name="yurusi9"></ref>。<br />
<br />
1955年(昭和30年)、[[東京タイムズ社]]の映画雑誌『'''スターストーリー'''』に翻訳要員として入社(編集室は江古田の熊谷家<ref group="注">ロマンス社創業者の熊谷寛。1951年にロマンス社を倒産させ、古巣の東京タイムズ社に戻っていた。塩澤が居候していた。</ref>の離れ)。同僚に塩澤実信<ref group="注">後に週間大衆の編集長となり『隠花植物群』の執筆を団に依頼。</ref><ref name="shio">塩澤実信『団鬼六 二十代・放浪の日々』[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 [[幻冬舎]]『花は紅―団鬼六の世界』([[幻冬舎]], 1999)]</ref>。4ヶ月後に退社し[[日劇ミュージックホール]]の照明係等、職を転々<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1956年(昭和31年)、文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した応募した『'''浪速に死す'''』が佳作。<br />
<br />
1957年(昭和32年)12月、文藝春秋「オール讀物」主催の第11回オール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した『'''親子丼'''』が次席受賞となる<ref group="注">父親をモデルとした小説。火野葦平、梅崎晴生、浜本浩の講評が出る。</ref>。この頃[[香西昇]]と知り合う。<br />
<br />
1958年(昭和33年)、[[奇譚クラブ]]の懸賞小説に[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で『'''お町の最後'''』を応募。7月号に『創作 お町の最後』として掲載。<br />
<br />
1958年(昭和33年)11月10日、五月書房<ref group="注"> 『蛇のみちは』では「東西芸術社」という変名で出てくる。</ref>から[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で『'''宿命の壁'''』<ref group="注">『浪速に死す』『親子丼』『お化けの街』『女の業』『宿命の壁』5編が収録。</ref>出版。[[香西昇]]が発起人で出版パーティーが開かれる。<br />
<br />
1958年(昭和33年)暮、五月書房からの2作目『'''大穴'''』が万単位の大ヒット。50万円を手にする<ref name="yurusi9"></ref>。その後、執筆依頼が殺到。<br />
<br />
1959年(昭和34年)5月、新橋の国際マーケットの2階にバー『ミヨ(34)<ref group="注">妹の[[黒岩三代子]]の名に由来</ref>』を開く<ref name="hebi"></ref><ref name="shio"></ref>。このバーの前持ち主の妹が、最初の夫人[[板倉三枝子]]の兄だった。<ref name="yurusi9"></ref>。[[香西昇]]は激怒し絶交。<br />
<br />
1960年(昭和35年)、2月<ref group="注">奥付が「印刷昭和34年、発行35年」となっており正確な発行年が不明。</ref>、風俗研究社の[[風俗クラブ]]創刊号に[[団鬼六|花巻京太郎]]『[http://nawa-art.com/etc/fc_196002/01/037.html 私刑される女]』発表。[[裏窓]]12月号に[[団鬼六|花巻京太郎]]『お町の危難』。<br />
<br />
1960年(昭和35年)4月、『大穴』 が松竹から映画化<ref group="注">黒岩松次郎原作。内川清一郎監督。出演は杉浦直樹 芳村真理 花菱アチャコ 清川虹子 山茶花究。</ref>。<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[奇譚クラブ]]1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196101/02/125.html p134]に『'''柔肌地獄'''』、2月号に『美しきが故に』。[[100万人のよる]]11月号に『美女が絶叫する変態観劇パーティー』[[裏窓]]3月号に『絵物語 Y座文芸部員』、12月号に『ある女の場合 浅草えれじい』。いずれも[[団鬼六|花巻京太郎]]名。<br />
<br />
1961年(昭和36年)頃、東中野から幡ヶ谷三丁目に移り、両親を関西から呼び寄せる<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、この頃、[[須磨利之]]と知り合う<ref name="net"></ref><ref group="注">1959年頃という記述もあるので確認が必要。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、『[[花と蛇]]』1〜3回を花巻京太郎の名で[[奇譚クラブ]]8月9月合併号から連載。バー『ミヨ(34)』を閉じる。<br />
<br />
===英語教師時代===<br />
1962年(昭和37年)9月、[[板倉三枝子]]の勧めで三浦市三崎に移転。三崎中学の英語教師となる<ref group="注">国語教師の資格しかもっていなかったが、英語教師が不足していたので英語担当</ref><ref name="yurusi10">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第四回「小説新潮」2011年(平成23年)10月号</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)頃、[[賀山茂]]と知り合う<ref group="注">『賀山茂の世界』では1959年(昭和34年)となっているが、2011年(昭和23年)、Webスナイパーの団鬼六追悼インタビューでは「新橋駅前の旧闇市の飲み屋で・・・ある日、隣で2、3度顔を見たことのある男から「よく会いますね」と声を掛けられて意気投合、これが高校教師時代の団鬼六だった。1962(昭和37)年頃のことである。」「三崎のうまい魚で一杯やろうということになって、三崎で酒を飲み交わした。団さんは、深酒するとすぐに寝ちゃうんだ。それから急速に仲良くなって、思いつくとそのまま水戸黄門のような旅に出かけた。金も持たない、予定なし、めくらめっぽうにね。団さんは風呂が好きで温泉のあるところに出掛けることが多かったな」 とある。また2012.6のUによるインタビュー時にも、「新橋の旧闇市の飲み屋で知り合い、最初はお互いにSMに趣味があることは知らない飲み友達だった。」「三崎で英語教師をしていた時代で、三崎にもしばしば遊びに行った」と述べている。</ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)2月4日、[[板倉三枝子]]と結婚。海南神社で挙式<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)頃、[[団鬼六]]が日吉の[[須磨利之]]を訪問している。<br />
<br />
1963年(昭和38年)春頃、[[吉田稔]]が三崎まで訪問。『[[花と蛇]]』の続きを書いてくれるよう依頼。この時は依頼を断る<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)、再度[[吉田稔]]が[[辻村隆]]を同伴して三崎まで訪問。『[[花と蛇]]』の続きを書くことを決意<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)7月、『[[花と蛇]]』を[[団鬼六]]の名で[[奇譚クラブ]]7月号から再開。妻[[板倉三枝子]]に隠れながら中学校で執筆する生活が続く<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)7月、長男'''黒岩秀行'''誕生。<br />
<br />
1963年(昭和38年)頃、三崎から少し離れた新築の家屋に引っ越し<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)11月、[[団鬼六|黒岩松次郎]]『銀座タコ部屋物語』in [[100万人のよる]]<br />
<br />
1964年(昭和39年)、『[[花と蛇]]』第一部が完結(第15回)。臨時増刊号が出る。11月号から第2部。<br />
<br />
===シナリオライター時代===<br />
1965年(昭和40年)春、「テレビ放送」<ref group="注">社名の『テレビ放送』は[[山邊信雄]]もそう証言しているので間違いない。団鬼六のエッセイには『S企画』(『蛇のみちは』)等いろいろな変名が使われている。 「ヒッチコック劇場」「バークレー牧場」「ウルトラ二等兵」「恐妻天国」を担当([[山邊信雄|岸信太郎]]『団さんの苦しんだ時代』) 。</ref>に入社するため再度単身上京。幡ヶ谷の近くに単身アパートを借りる<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1965年(昭和40年)年、[[山邊信雄]]と知り合い、最初のピンク映画台本を執筆<ref name="net"></ref><ref group="注">「山邊さんの知り合いの、エロダクションの社長Tが脚本家を捜しており、山邊さんが団さんに依頼し、できた脚本が山邊さんからTに渡り、このTが映画化して[[六邦映画]]で契約成立。」とある。その後、Tのために毎月脚本を書き、[[新高恵子]]、[[内田高子]]、[[松井康子]]が団の脚本で芝居、とある。</ref>。<br />
<br />
1965年(昭和40年)年、[[山邊信雄]]と共に『[[花と蛇]]』を制作<ref group="注">[[ヤマベプロ]]制作、[[東京企画]]配給。詳細は[[1965年版「花と蛇」]])</ref>。<br />
<br />
1966年(昭和41年)、[[板倉三枝子|夫人]]と長男三崎から上京直後、「テレビ放送」が倒産し<ref name="yurusi11">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第五回「小説新潮」2011年(平成23年)11月号</ref>、家族と共に神奈川県、真鶴に転居。ピンク映画の脚本依頼が殺到<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1966年(昭和41年)頃、[[山邊信雄]]の紹介で[[谷ナオミ]]と出会う<ref name="net"></ref>。[[賀山茂]]に[[谷ナオミ]]を紹介する<ref name="kayama">『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)11月、長女、黒岩由起子<ref group="注"> 肥沼由起子。団鬼六事務所</ref>誕生。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、[[ヤマベプロ]]作品『続・[[花と蛇]] 赤い拷問』<ref group="注">[[松原次郎]]監督。出演は[[谷ナオミ]]、[[たこ八郎]]など。[[賀山茂]]が緊縛を手伝っている。</ref>。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、この頃既に[[ピンク実演]]の脚本を書き出している<ref name="sakaba">『鬼六談義 酒場の話』[[奇譚クラブ]]1968年(昭和43年)6月号</ref>。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、団の紹介で[[辻村隆]]が石井輝男監督の『徳川女刑罰史』(東映)で緊縛指導をしている。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、[[奇譚クラブ]]12月号、および翌1月号の2回に分けて『私本 [[伊藤晴雨]]物語』。<br />
<br />
===[[鬼プロ]]時代===<br />
1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にAGアパートを借り(本拠地は真鶴の自宅)、[[鬼プロ]]を設立。[[たこ八郎]]が住み込み。<br />
<br />
1969年(昭和44年)5月、[[鬼プロ]]制作『女極道色欲一代』が公開<ref group="注">「中川プロ」制作との記述もあり。配給は[[ミリオン]]フィルム。監督:伊世亜夫。出演:里見孝二 水咲陽子 [[林美樹]] 長岡丈二 江島祐子 冬木京三 九重京司 三重街竜 園あけみ。</ref>。<br />
<br />
1969年(昭和44年)、[[奇譚クラブ]]10月号「編集部だより」に「かねて三浦半島の一角に建築しておられた邸宅がこのほど完成」とある。<br />
<br />
1969年(昭和44年)9月24日、関西テレビ「ナイトショー」の「サドの世界」に[[立川談志]]と共に出演。前田武彦、芳村真理<ref>[[奇譚クラブ]]1969年(昭和44年)12月号「サロン楽我記」</ref>。<br />
<br />
1969年(昭和44年)10月、[[芳賀書店]]から『緊縛写真』シリーズ。緊縛は[[賀山茂]]。<ref group="注">『『緊縛写真4』は1970年(昭和45年)。『緊縛写真・別巻』1−5が1970年(昭和45年)に。別巻の写真は戸塚栄作。</ref>。<br />
<br />
1969年(昭和44年)11月、鬼プロ第1回作品『女が鞭で嬲る時』公開<ref group="注">原作シナリオ名は「鬼女」</ref>。<br />
<br />
1970年(昭和45年)7月、週刊ポスト7月31日号に「今週の人」として取り上げられ、「[[花と蛇]]」を紹介。<br />
<br />
1970年(昭和45年)10月、[[東京三世社]]より[[SMセレクト]]創刊の相談を受ける。<br />
<br />
1971年(昭和46年)1月18日、青島幸夫の「おひるのワイドショー」の「性でもうけるX氏」に出演<ref>奇譚クラブ1971年(1971年)4月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197104/197104_072.html p234]</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)1月、[[ミリオン]]制作の『肉地獄』を監督。<br />
<br />
1971年(昭和46年)1月、「週刊大衆」に『'''隠花植物群'''』を連載開始。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、AGアパート時代に、[[たこ八郎]]の紹介で[[杉浦則夫]]が[[鬼プロ]]に参加。[[たこ八郎]]の[[ピンク実演]]が始まる<ref name="u">[[杉浦則夫]]から[[U]]への私信(2010年4月12日)。</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、[[芳賀書店]]から『緊縛写真大全』。写真:篠山紀信、構成・イラストレーション:[[宇野亜喜良]]。緊縛は[[浦戸宏]]。<br />
<br />
1971年(昭和46年)頃、[[鬼プロ]]4作目の映画を監督[[本木荘二郎]]で制作<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、渋谷区道玄坂の新築の三信マンションに引っ越し。<br />
<br />
1971年(昭和46年)7月、鈴木則文監督『温泉みみず芸者』(東映)に出演<ref group="注">他にも『温泉スッポン芸者』(鈴木則文監督、東映1972)、『桃子夫人の冒険』(小原宏裕監督、にっかつ1979、『ザッツ宴会<br />
テイメント』(泉谷しげる・石井聰互監督、1984)『文学賞殺人事件 大いなる助走』(鈴木則文監督、アジャックス 1989)などに出演。</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、目黒区目黒三丁目(大鳥神社近く。)に部屋数7つ300坪の豪邸を借り、タコ劇団をこちらに移す。真鶴から家族を呼ぶ<ref group="注">[[杉浦則夫]]の記憶では、真鶴から再度三浦三崎に戻っていた。夫人の実家が三崎の材木商であった。</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、『続・[[花と蛇]]』が完結。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、[[SMキング]]創刊。週間大衆に『隠花植物群』を連載開始。『'''奇譚伊藤晴雨伝'''』([[三崎書房]])を発刊。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、[[週刊実話]]10月16日号で『異常セックス特集』。[[団鬼六]]を囲むSM座談会が掲載。<br />
<br />
1972年(昭和47年)11月、『'''緋ぢりめん博徒'''』(東映、1972.11.21)(監督:[[石井輝男]]、原案:[[団鬼六]]、出演:中村英子 土田早苗 藤ひろ子 池玲子 山城新伍 菅原文太 司京子 小池朝雄)公開<br />
<br />
1973年(昭和48年)、[[鬼プロ]]の社員数が8人になる<ref name="net"></ref><ref group="注">[[たこ八郎]]、[[杉浦則夫]]、[[田代幸三]]、[[中原研一]]、[[山根麗子]]など。</ref>。<br />
<br />
===SM作家時代===<br />
1974年(昭和49年)、にっかつ『[[花と蛇]]』が公開<ref group="注">主演は[[谷ナオミ]]。監督は小沼勝。緊縛指導は[[浦戸宏]]。</ref>。[[SMキング]]廃刊し[[鬼プロ]]も解散<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1974年(昭和49年)、[[アブハンター]]に『[[花と蛇]]・完結編』連載開始。1975年までの12回。<br />
<br />
1975年(昭和50年)8月、[[日劇ミュージックホール]]「ニンフェットは密がおすき」の構成<ref group="注">藤田敏雄、平田稲雄と。田中真理、瀬間千恵がゲスト。</ref><ref name="MH">『The Nichigeki Music Hall』(東宝, 1982)</ref>。<br />
<br />
1976年(昭和51年)2月27日ー4月20日、[[日劇ミュージックホール]]に出演した[[谷ナオミ]]の「春の夜のおんな絵巻」を演出<ref name="net"></ref><ref group="注">全体で二部15景だが、その中の第一部第八景『'''大和路哀歌'''』が'''団鬼六'''の作・演出。第八景の出演は[[谷ナオミ]]、あきつ未来、夏ユリヤ、小川純、鶴見博。第一部の構成・演出;伊藤潤、第二部の作・選出:里吉しげみ、他の景での主な出演:松原美紀 小川純 舞悦子 浅茅けいこ 水原まゆみ あき竹城 コメディ天国など</ref>。<br />
<br />
1976年(昭和51年)、[[東京三世社]]が団鬼六賞を創設<ref group="注">第一回鬼六賞の受賞者は姫野カオルコ。</ref>。<br />
<br />
1977年(昭和52年)、世田谷区奥沢に転居<ref name="net"></ref>。大岡山に仕事場を借りる。<br />
<br />
1979年(昭和54年)、[[谷ナオミ]]が『縄と肌』で引退。<br />
<br />
1980年(昭和55年)、横浜の桜木町で売りに出ていたメリヤス工場を買い取り転居。SM道具などを陳列<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1980年(昭和55年)、シングルレコード『あきかぜ』をリリース。サンケイスポーツに『鬼六あぶらんだむ』を連載開始。<br />
<br />
1982年(昭和57年)、[[鬼プロ]]再結成<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1983年(昭和58年)、最初の妻、三枝子と離婚。[[鬼プロ]]再解散<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1983年(昭和58年)7月、[[日劇ミュージックホール]]の公演「演歌 IN エロス 女からおんなへ」二幕第六景の作・演出<ref group="注">[[賀山茂]]によると実際の演出は[[賀山茂]]がおこなった。</ref>。<br />
<br />
1984年(昭和59年)6月、演歌歌手、宮本安紀子([[黒岩安紀子]])と再婚<ref group="注">1945年(昭和20)年1月12日東京生まれ。一時、[[団鬼六]]の秘書をしていたが、やがてテレビ神奈川に就職して管理職に。同局をやめて演歌歌手としてデビューした頃に結婚。</ref>。<br />
<br />
1984年(昭和59年)9月、角川書店から『[[花と蛇]]』の初の文庫本化。全8巻。[[見城徹]]の企画。<br />
<br />
1985年(昭和60年)、初の自伝『蛇の道は』(白夜書房)を刊行。<br />
<br />
1986年(昭和61年)、桜木町の自宅前のささや旅館を9,000万円で買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。<ref name="hebi"></ref><ref group="注">三百坪で屋上にはビアガーテン。土地代総工費合わせて5億円。</ref>。<br />
<br />
1986年(昭和61年)、父、'''黒岩信行'''が74才で永眠<ref name="yurusi3">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第九回「小説新潮」2012年(平成24年)3月号</ref>。<br />
<br />
1987年(昭和62年)、『'''[[伊藤晴雨]]物語''']』(河出文庫)を発刊。次男、黒岩信彦誕生。<br />
<br />
===断筆時代===<br />
1989年(平成元年)、SM小説断筆宣言。将棋に関するエッセイに絞る。<br />
<br />
1989年(平成元年)、日本アマチュア将棋連盟発行の機関紙『将棋ジャーナル』を買い取る。<br />
<br />
1994年(平成6年)、『将棋ジャーナル』廃刊。多額の負債を抱える。<br />
<br />
===復活から現在まで===<br />
1995年(平成7年)1月、[[長池士]]の運営する、SMサークル『アムス』の分科会の一つとして『鬼六の会』が発足<ref group="注">元々は独立した団体であったが、1995年からアムスが管理運営(団の昔のHPより)。</ref>。<br />
<br />
1995年(平成7年)、『'''真剣師・小池重明'''』(イーストプレス)で執筆活動を再開。<br />
<br />
1995年(平成7年)、東京・浜田山の借家に移る。<br />
<br />
1996年(平成8年)、[[伊藤晴雨]]の伝記『'''外道の群れ'''』(朝日ソノラマ)。<br />
<br />
1996年(平成8年)6月22日、「鬼六まつり96『外道の群れ』の出版を祝う会」開催。ゲスト:[[明智伝鬼]]、[[蕾火]]、[[炎華]]。<br />
<br />
1997年(平成9年)、脳梗塞で入院。<br />
<br />
1998年(平成10年)5月、秋田市での『第20回日本文化デザイン会議 '98秋田』で公開講座。第5講「緊縛芸術」で[[明智伝鬼]]、[[大岡玲]]、[[河原敏文]]、[[島田雅彦]]、[[団鬼六]]の対談。<br />
<br />
1999年(平成11年)10月、かつての[[鬼プロ]]復活を意識した「花紅舎」が設立される<ref group="注">代表取締役:坂本利建、取締役:[[中原研一]]、黒岩幸彦、[[黒岩安紀子]]、大石実。東京都千代田区外神田2丁目2番19号。2003年3月には代表取締役:阪本利建、取締役:黒岩幸彦、[[黒岩安紀子]]。東京都渋谷区広尾1丁目9番20号 TM広尾6F。同7月には新宿区早稲田町83 SOビル B1。</ref>。<br />
<br />
1999年(平成11年)、CD『団鬼六 東海林太郎を唄う』をリリース。<br />
<br />
2002年(平成14年)、[[伊藤晴雨]]の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。<br />
<br />
2002年(平成14年)、『紅姉妹』(シネマジック)を監督。原作は「肉体の賭け」。<br />
<br />
2004年(平成16年)、東映ビデオ『[[花と蛇]]』(監督:[[石井隆]]、緊縛指導:[[有末剛]]、主演:[[杉本彩]]) が公開。<br />
<br />
2005年(平成17年)9月6日、東京厚生年金会館にて『'''[[明智伝鬼追悼式]]'''』(発起人:[[団鬼六]]、[[高須基仁]]、[[桜田伝次郎]]、[[早川佳克]])<br />
<br />
2006年(平成18年)、人工透析拒否宣言<ref group="注">ただし、翌年には医師の説得で受け入れる。</ref>。<br />
<br />
2009年(平成21年)7月、特攻隊員と少女の恋愛小説『'''往きて還らず'''』(新潮社)<br />
<br />
2010年(平成22年)、食道がんであることを公表<ref>『残日録・春-我、ガンになりたり』「小説新潮」2010年(平成22年)5月号。</ref>。<br />
<br />
2010年(平成22年)、[[無双舎]]、季刊「悦」が「[[団鬼六]]賞」創設<ref group="注">選考委員は団鬼六、重松清、高橋源一郎、睦月影郎。</ref>。第1回受賞は[[花房観音]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/486408467X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=486408467X 花祀り]'''』。<br />
<br />
2011年(平成23年)4月10日、3月11日の東日本大震災後初のブログの書き込み「日本人は決してへこたれない、立派な国民だ」<ref group="注">ブログにアップされたのは18日</ref>。<br />
<br />
2011年(平成23年)5月6日、食道がんにより没。<br />
<br />
2011年(平成23年)5月16日、港区増上寺にて告別式。弔辞は[[見城徹]]、米長邦雄<ref group="注">日本将棋連盟会長</ref>、[[谷ナオミ]]。<br />
<br />
2012年(平成24年)2月、第2回「[[団鬼六]]賞」、大賞:[[うかみ綾乃]]『蝮の舌』、優秀作:沢里裕二『淫府再興』 <br />
<br />
2013年(平成25年)10月27日、赤坂歌楽歌良屋での『'''[[団鬼六]]師を偲ぶ集い~鴇色の蹴出し~'''』。主催:クリエイティブスタジオ煉瓦。出演:[[早乙女宏美]]、[[蕾火]]、[[杉浦則夫]]、[[鏡堂みやび]]、[[黒岩安紀子]]、[[奈加あきら]]、三宅貴代美。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*高校時代は剣道部に所属。その時の師範から試刀術を学んだことが、後の刀剣コレクションに影響する。<br />
*横浜市出身の力士で1992年(平成4年)東前頭4枚目にまで上がった鬼雷砲を幕下時代から応援しており、1991年(平成3年)の入幕時の記念祝賀会を主催している。<br />
*[[千草忠夫]]は熱烈な『[[花と蛇]]』の支持者で、団が三崎で英語教師をしていた頃、三崎まで訪問。その後、夏休み毎に三崎を訪問し、1週間ばかり団の家に泊まっていた<ref name="kyotaro">西村京太郎・団鬼六『昭和ヒトケタ世代の現役宣言』[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 [[幻冬舎]]『花は紅―団鬼六の世界』pp42-pp52 ([[幻冬舎]], 1999)]</ref>。<br />
*映画製作で熱海の「起雲閣」をよく使った<ref>堀江珠喜『団鬼六の耽美世界」in [http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)]</ref>。<br />
*[[立川談志]]の立川一門に属し、'''立川鬼六'''という名をもつ。<br />
<br />
==代表作==<br />
===[[花と蛇]]===<br />
[[花と蛇]]のページにまとめている。<br />
===自伝===<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J9ABNS?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J9ABNS '''鬼六談義''']』([[芳賀書店]], 1970)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766903072?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4766903072 '''鬼六あぶらんだむ''']』(笠倉出版社, 1981)<ref group="注">1986年に勁文社から文庫化</ref><br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766922107?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4766922107 '''SMに市民権を与えたのは私です''']』(勁文社, 1995)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877284818?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877284818 '''蛇のみちは―団鬼六自伝''']』([[幻冬舎]], 1997)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/416322730X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=416322730X '''生きかた下手''']』(2004, 文藝春秋)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4344980107?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4344980107 '''快楽なくして何が人生''']』(2006, [[幻冬舎]])<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062160420?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4062160420 '''悦楽王''']』(2010, 講談社)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/406216552X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=406216552X '''死んでたまるか 自伝エッセイ''']』(2011, 講談社)<br />
<br />
===[[団鬼六の主な小説]]===<br />
[[団鬼六の主な小説]]にまとめてある。<br />
<br />
===写真集===<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真'''』([[芳賀書店]], 1969.10)(緊縛:[[賀山茂]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真2'''』([[芳賀書店]], 1969)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真3'''』([[芳賀書店]], 1969)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''SM写真集 薔薇の鏡'''』(書肆そうび館, 1969.8.1)(販売:[[芳賀書店]]、文:[[団鬼六]] 別府新 塩川章、装幀:ばん・やすき、レイアウト:剣未知子、写真:砂地好美、発行者:章田芳雄)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真4'''』([[芳賀書店]], 1970)<br />
*[[団鬼六]]『'''[[団鬼六]]SM映画作品集'''』(発行:[[耽美館]]、販売:[[芳賀書店]], 1970.8.15)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻1'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻2'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻3'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻4'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花1'''』([[耽美館]], 1970)(写真:[[小川源次郎]]、製作:[[鬼プロ]]、モデル:瀬川ルミ、川村冬子、瀬戸由紀、三田洋子)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花2'''』([[耽美館]], 197?)(写真:[[賀山茂]]、製作:[[鬼プロ]]、モデル:藤沢ナナ、島江梨子、沖さとみ、渕上啓子、村西房江)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花3'''』([[耽美館]], 1971)(写真:[[戸塚栄作]]、製作:[[鬼プロ]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花4'''』([[耽美館]], 1971)(写真:[[黒羽京太郎]]、製作:[[鬼プロ]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花5'''』([[耽美館]], 1971)(写真:吉岡順三郎、製作:[[鬼プロ]])<br />
*[[団鬼六]]『'''緊縛幻想コレクター'''』(撮影:[[山口たかし]]、装丁:黒田征一郎・長友啓典、モデル:[[島江梨子]]、[[茜みさお]]、[[藤沢ナナ]], [[芳賀書店]], 1971)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''愛奴1'''』([[耽美館]], 1972)(写真:[[白濱静麿]]、製作:[[鬼プロ]])<br />
*[[団鬼六]]『'''鬼六写真メモ SM耽美文学別巻1'''』([[耽美館]], 1972)<br />
*[[団鬼六]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4898292410/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4898292410 異形の遊戯]'''』(ワニマガジン, 1996.7.10)(発行人:平田昌兵、アートディレクション:武田和久、写真:[[山崎シンジ]]、緊縛師:[[明智伝鬼]]、[[長池士]]、絵:[[春日章]]、[[小妻要]]、[[春川ナミオ]]、モデル:[[小川実那子]]他)<br />
*神蔵美子『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4838710658/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4838710658&linkCode=as2&tag=iq05-2 たまゆら]'''』(マガジンハウス, 1998.7)(サングラスなしの[[明智伝鬼]]や[[団鬼六]]他が女装姿でモデルとなっている)<br />
<br />
===[[鬼六談義]]===<br />
[[鬼六談義]]のページに移行。<br />
===団研究本===<br />
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J7K89M?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J7K89M 平岡正明・岡庭昇『団鬼六・暗黒文学の世界』(三一書房, 1982)]<br />
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 『花は紅―団鬼六の世界』([[幻冬舎]], 1999)]<br />
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)]<br />
*[[大崎善生]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104594032/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4104594032&linkCode=as2&tag=iq05-22 赦す人]'''』(新潮社, 2012.11.30)<br />
<br />
===映画===<br />
*『'''大穴'''』(松竹, 1960)(監督:内川清一郎、脚本:菊島隆三、原作:[[団鬼六|黒岩松次郎]]、音楽:佐藤勝、撮影:太田喜晴、美術:水谷浩、出演:杉浦直樹 芳村真理 花菱アチャコ 清川虹子 山茶花究 上田吉二郎 左卜全) <br />
*その他、[[ヤマベプロ]]、[[鬼プロ]]、[[花と蛇]]、[[谷ナオミ]]などに映画関係の情報。<br />
===[[1965年版「花と蛇」]]===<br />
*[[1965年版「花と蛇」]]、[[1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?]]を参照。<br />
<br />
===[[奇譚クラブ]]の映画シナリオ===<br />
[[団鬼六の映画シナリオ]]に移動。<br />
===芝居===<br />
*[[花と蛇]]の舞台化は[[花と蛇]]のページ参照。<br />
*北区つかこうへい劇団『'''往きて還らず'''』(原作:[[団鬼六]]、脚本:石川朝子、演出:逸見輝羊、出演:木下智恵、吉田学、小川智之、杉山圭一、北田理道) 2010年(平成22年)12月16日ー19日 於 北区滝野川会館大ホール<ref group="注">企画後につかこうへいはがんで死去。残った劇団員が公演を実現した。</ref><br />
<br />
==引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==つながり==<br />
[[吉田稔]]<br />
[[須磨利之]]<br />
[[辻村隆]]<br />
[[賀山茂]]<br />
[[山邊信雄]]<br />
[[谷ナオミ]]<br />
[[杉浦則夫]]<br />
[[たこ八郎]]<br />
[[有末剛]]<br />
[[田代幸三]]<br />
[[本木荘二郎]]<br />
[[中原研一]]<br />
[[長池士]]<br />
[[山根麗子]]<br />
[[リッキー梶原]]<br />
<br />
==お役たちweb==<br />
*[http://oniroku.net/ 団鬼六オフィシャルサイト]<br />
*[http://www.oni6.com/ 旧団鬼六オフィシャルサイト]<br />
*[http://pochi74.hp.infoseek.co.jp/hanahebi00X.htm 「花と蛇」年代記]<br />
*[http://homepage2.nifty.com/074/hana201.htm 団鬼六長編作品リスト]<br />
*[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10361575543.html 映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六]<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店] <br />
<br />
<br />
{{Dokuji-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:たんおにろく}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:文筆家]]<br />
[[Category:仕掛人]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%9B%A3%E9%AC%BC%E5%85%AD&diff=47702
団鬼六
2017-07-23T23:36:54Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:Dan.jpg|150px|thumbnail|団鬼六 (1931- 2011)]]<br />
'''だん おにろく'''、1931年(昭和6年)4月16日 - 2011年(平成23年)5月6日<br />
<br />
==概要==<br />
[[団鬼六]]のエッセイに『SMに市民権を与えたのは私です』と題された作品があるが、まさに「SM」というマニアの世界と一般社会をつなぐ窓口として活躍した重鎮である。1957年(昭和32年)、文藝春秋社主催の第11回オール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した『親子丼』が次席受賞、小説家としてのスタートを切る。翌年には[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で[[奇譚クラブ]]の懸賞小説に応募し、入選。1958年(昭和33年)には単行本『宿命の壁』『大穴』の出版、1960年(昭和35年)には『大穴』の松竹からの映画化、と幸先の良いスタートを切るが、新橋でのバー経営に失敗、1962年(昭和37年)には神奈川県三浦半島に移り英語教師となる。この頃、[[奇譚クラブ]]に[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で寄稿した『[[花と蛇]]』がマニアからの支持を得、1963年(昭和38年)から[[団鬼六]]と名を変えて連載を本格化する。[[須磨利之]]、[[吉田稔]]、[[辻村隆]]、[[千草忠夫]]との交流を深め、『[[花と蛇]]』の人気がますます高まる中、再度上京し洋画吹き替え会社『テレビ放送』社に入社する。おりしも[[ピンク映画]]が爆発的に人気を集め出した頃で、『テレビ放送』社で知り合った[[山邊信雄]]と共に、1965年(昭和40年)に『[[花と蛇]]』の映画化を実現する。[[山邊信雄]]が本格的に[[ピンク映画]]制作に乗り出すと共に、[[ヤマベプロ]]の脚本家として多くの[[ピンク映画]]や[[ピンク実演]]脚本を書いた。[[ヤマベプロ]]の所属であった[[谷ナオミ]]や[[たこ八郎]]と早くから交流があり、[[谷ナオミ]]は[[辻村隆]]を通じて[[奇譚クラブ]]でも紹介されている。1968年(昭和43年)に[[辻村隆]]を東映に紹介した頃から、関西テレビなどのマスコミに露出し、一般社会へのSMの紹介者として地位を確立していく。1969年(昭和44年)には[[ヤマベプロ]]から離れ、自ら[[鬼プロ]]を設立し、[[ピンク映画]]や[[ピンク実演]]の制作を始める。しかしながら[[ピンク映画]]そのものの全盛期は過ぎており、やがて[[鬼プロ]]は写真集や[[SMキング]]といった出版にシフトしていく。以後、SM雑誌の大ブームとなり、膨大な数のSM小説作品を発表、SM作家としての不動の地位を築き上げる。1974年(昭和49年)には、[[にっかつ|日活]]が[[谷ナオミ]]を主演として『[[花と蛇]]』を映画化し、ロマンポルでのSMブームが起こる。[[にっかつ|日活]]は、SM内容の作品には全て[[団鬼六]]の名前をタイトルに入れため、[[団鬼六]]=SMの図式がますます強固なものとなった。将棋はプロ級の腕をもち、将棋に関する著作も多数ある。1989年(平成元年)、断筆宣言後、しばらくは将棋に関するエッセイ等を執筆するにとどまったが、1995年(平成7年)に執筆活動を再開し、『真剣師・小池重明』『外道の群れ』『往きて還らず』などの長編小説を発表している。明るく優しい人柄から交友関係も幅広い。[[団鬼六]]自身はそれほどコアなSMマニアではないという意見が多い。実妹はジャズ歌手の[[黒岩三代子]]。2011年(平成23年)5月、食道がんにより永眠。<br />
<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Oniroku_Dan Oniroku Dan]、黒岩幸彦(本名)、[[花巻京太郎]]、[[淡路周五]]、[[黒岩松次郎]]。<br />
<br />
==略歴==<br />
''[[団鬼六]]は多くの自伝、あるいはそれに類するものを残しているが、明らかに創作と思われる部分も多く、年代に関してもぶれが多い。[[団鬼六]]の経歴については、[[大崎善生]]の[[団鬼六]]伝記『'''赦しの鬼'''』(「小説新潮」2011年7月号より連載)が、丁寧な取材に基づく信頼性の高いものと思われるので、不一致がある場合には、この伝記の記載を優先している。''<br />
<br />
===関西時代===<br />
1931年(昭和6年)4月16日、滋賀県彦根市四番町土橋の映画館「金城館」経営者の子としてに生まれる<ref name="hebi">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877284818?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877284818 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』([[幻冬舎]], 1997)]</ref>。父・黒岩信行はかつて映画の脚本家をめざしていた。母・元映画女優の[[香取幸枝]]<ref group="注">1927年(昭和2年)、離婚を機に、直木三十五に2年師事。直木はその頃映画に手を出しており、1928年(昭和3年)の『熱球は飛ぶ』(服部真砂雄監督)で主演女優。栗島すみ子と同期。その後、直木が岡田嘉子一座に世話。岡田座解散後、坂東寿三郎劇団の幹部女優となる。坂東劇団解散後、松竹の脚本部にいた信行と結婚。</ref>で再婚。幸枝はかつて直木三十五に師事。戸籍上の生まれは9月1日<ref name="sato">佐藤齊「作家団鬼六の誕生」in [http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)]</ref>。<br />
<br />
1943年(昭和18年)、「金城館」は人手にわたり、一家は大阪東淀川区神崎川に移る。関西学院の中学部に入学<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。<br />
<br />
1950年(昭和25年)、関西学院大学・法学部入学。「[[奇譚クラブ]]」に傾倒する<ref name="hebi"></ref><ref name="net">[http://oniroku.net/ 団鬼六オフィシャルサイト]より(2010)</ref>。<br />
<br />
===小説家デビュー時代===<br />
1954年(昭和29年)、[[黒岩三代子]]が楽団ブルーコーツのオーディションに合格して上京し、ジャズ歌手としてデビュー<ref name="yurusi9">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第三回「小説新潮」2011年(平成23年)9月号</ref><br />
<br />
1955年(昭和30年)春、関西学院大学卒業と同時に上京<ref group="注">在学時に既に東京で[[日劇ミュージックホール]]の照明係等をアルバイトしていたため、一年間留学し、足りない単位を取るために関西に試験を受けに帰ってきたという記述もある。</ref>、幡ヶ谷の[[黒岩三代子]]のアパートに住む<ref name="yurusi9"></ref>。<br />
<br />
1955年(昭和30年)、[[東京タイムズ社]]の映画雑誌『'''スターストーリー'''』に翻訳要員として入社(編集室は江古田の熊谷家<ref group="注">ロマンス社創業者の熊谷寛。1951年にロマンス社を倒産させ、古巣の東京タイムズ社に戻っていた。塩澤が居候していた。</ref>の離れ)。同僚に塩澤実信<ref group="注">後に週間大衆の編集長となり『隠花植物群』の執筆を団に依頼。</ref><ref name="shio">塩澤実信『団鬼六 二十代・放浪の日々』[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 [[幻冬舎]]『花は紅―団鬼六の世界』([[幻冬舎]], 1999)]</ref>。4ヶ月後に退社し[[日劇ミュージックホール]]の照明係等、職を転々<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1956年(昭和31年)、文藝春秋「オール讀物」主催のオール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した応募した『'''浪速に死す'''』が佳作。<br />
<br />
1957年(昭和32年)12月、文藝春秋「オール讀物」主催の第11回オール新人杯に[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で応募した『'''親子丼'''』が次席受賞となる<ref group="注">父親をモデルとした小説。火野葦平、梅崎晴生、浜本浩の講評が出る。</ref>。この頃[[香西昇]]と知り合う。<br />
<br />
1958年(昭和33年)、[[奇譚クラブ]]の懸賞小説に[[団鬼六|花巻京太郎]]の名で『'''お町の最後'''』を応募。7月号に『創作 お町の最後』として掲載。<br />
<br />
1958年(昭和33年)11月10日、五月書房<ref group="注"> 『蛇のみちは』では「東西芸術社」という変名で出てくる。</ref>から[[団鬼六|黒岩松次郎]]の名前で『'''宿命の壁'''』<ref group="注">『浪速に死す』『親子丼』『お化けの街』『女の業』『宿命の壁』5編が収録。</ref>出版。[[香西昇]]が発起人で出版パーティーが開かれる。<br />
<br />
1958年(昭和33年)暮、五月書房からの2作目『'''大穴'''』が万単位の大ヒット。50万円を手にする<ref name="yurusi9"></ref>。その後、執筆依頼が殺到。<br />
<br />
1959年(昭和34年)5月、新橋の国際マーケットの2階にバー『ミヨ(34)<ref group="注">妹の[[黒岩三代子]]の名に由来</ref>』を開く<ref name="hebi"></ref><ref name="shio"></ref>。このバーの前持ち主の妹が、最初の夫人[[板倉三枝子]]の兄だった。<ref name="yurusi9"></ref>。[[香西昇]]は激怒し絶交。<br />
<br />
1960年(昭和35年)、2月<ref group="注">奥付が「印刷昭和34年、発行35年」となっており正確な発行年が不明。</ref>、風俗研究社の[[風俗クラブ]]創刊号に[[団鬼六|花巻京太郎]]『[http://nawa-art.com/etc/fc_196002/01/037.html 私刑される女]』発表。[[裏窓]]12月号に[[団鬼六|花巻京太郎]]『お町の危難』。<br />
<br />
1960年(昭和35年)4月、『大穴』 が松竹から映画化<ref group="注">黒岩松次郎原作。内川清一郎監督。出演は杉浦直樹 芳村真理 花菱アチャコ 清川虹子 山茶花究。</ref>。<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[奇譚クラブ]]1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196101/02/125.html p134]に『'''柔肌地獄'''』、2月号に『美しきが故に』。[[100万人のよる]]11月号に『美女が絶叫する変態観劇パーティー』[[裏窓]]3月号に『絵物語 Y座文芸部員』、12月号に『ある女の場合 浅草えれじい』。いずれも[[団鬼六|花巻京太郎]]名。<br />
<br />
1961年(昭和36年)頃、東中野から幡ヶ谷三丁目に移り、両親を関西から呼び寄せる<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、この頃、[[須磨利之]]と知り合う<ref name="net"></ref><ref group="注">1959年頃という記述もあるので確認が必要。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、『[[花と蛇]]』1〜3回を花巻京太郎の名で[[奇譚クラブ]]8月9月合併号から連載。バー『ミヨ(34)』を閉じる。<br />
<br />
===英語教師時代===<br />
1962年(昭和37年)9月、[[板倉三枝子]]の勧めで三浦市三崎に移転。三崎中学の英語教師となる<ref group="注">国語教師の資格しかもっていなかったが、英語教師が不足していたので英語担当</ref><ref name="yurusi10">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第四回「小説新潮」2011年(平成23年)10月号</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)頃、[[賀山茂]]と知り合う<ref group="注">『賀山茂の世界』では1959年(昭和34年)となっているが、2011年(昭和23年)、Webスナイパーの団鬼六追悼インタビューでは「新橋駅前の旧闇市の飲み屋で・・・ある日、隣で2、3度顔を見たことのある男から「よく会いますね」と声を掛けられて意気投合、これが高校教師時代の団鬼六だった。1962(昭和37)年頃のことである。」「三崎のうまい魚で一杯やろうということになって、三崎で酒を飲み交わした。団さんは、深酒するとすぐに寝ちゃうんだ。それから急速に仲良くなって、思いつくとそのまま水戸黄門のような旅に出かけた。金も持たない、予定なし、めくらめっぽうにね。団さんは風呂が好きで温泉のあるところに出掛けることが多かったな」 とある。また2012.6のUによるインタビュー時にも、「新橋の旧闇市の飲み屋で知り合い、最初はお互いにSMに趣味があることは知らない飲み友達だった。」「三崎で英語教師をしていた時代で、三崎にもしばしば遊びに行った」と述べている。</ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)2月4日、[[板倉三枝子]]と結婚。海南神社で挙式<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)頃、[[団鬼六]]が日吉の[[須磨利之]]を訪問している。<br />
<br />
1963年(昭和38年)春頃、[[吉田稔]]が三崎まで訪問。『[[花と蛇]]』の続きを書いてくれるよう依頼。この時は依頼を断る<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)、再度[[吉田稔]]が[[辻村隆]]を同伴して三崎まで訪問。『[[花と蛇]]』の続きを書くことを決意<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)7月、『[[花と蛇]]』を[[団鬼六]]の名で[[奇譚クラブ]]7月号から再開。妻[[板倉三枝子]]に隠れながら中学校で執筆する生活が続く<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)7月、長男'''黒岩秀行'''誕生。<br />
<br />
1963年(昭和38年)頃、三崎から少し離れた新築の家屋に引っ越し<ref name="yurusi10"></ref>。<br />
<br />
1963年(昭和38年)11月、[[団鬼六|黒岩松次郎]]『銀座タコ部屋物語』in [[100万人のよる]]<br />
<br />
1964年(昭和39年)、『[[花と蛇]]』第一部が完結(第15回)。臨時増刊号が出る。11月号から第2部。<br />
<br />
===シナリオライター時代===<br />
1965年(昭和40年)春、「テレビ放送」<ref group="注">社名の『テレビ放送』は[[山邊信雄]]もそう証言しているので間違いない。団鬼六のエッセイには『S企画』(『蛇のみちは』)等いろいろな変名が使われている。 「ヒッチコック劇場」「バークレー牧場」「ウルトラ二等兵」「恐妻天国」を担当([[山邊信雄|岸信太郎]]『団さんの苦しんだ時代』) 。</ref>に入社するため再度単身上京。幡ヶ谷の近くに単身アパートを借りる<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1965年(昭和40年)年、[[山邊信雄]]と知り合い、最初のピンク映画台本を執筆<ref name="net"></ref><ref group="注">「山邊さんの知り合いの、エロダクションの社長Tが脚本家を捜しており、山邊さんが団さんに依頼し、できた脚本が山邊さんからTに渡り、このTが映画化して[[六邦映画]]で契約成立。」とある。その後、Tのために毎月脚本を書き、[[新高恵子]]、[[内田高子]]、[[松井康子]]が団の脚本で芝居、とある。</ref>。<br />
<br />
1965年(昭和40年)年、[[山邊信雄]]と共に『[[花と蛇]]』を制作<ref group="注">[[ヤマベプロ]]制作、[[東京企画]]配給。詳細は[[1965年版「花と蛇」]])</ref>。<br />
<br />
1966年(昭和41年)、[[板倉三枝子|夫人]]と長男三崎から上京直後、「テレビ放送」が倒産し<ref name="yurusi11">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第五回「小説新潮」2011年(平成23年)11月号</ref>、家族と共に神奈川県、真鶴に転居。ピンク映画の脚本依頼が殺到<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1966年(昭和41年)頃、[[山邊信雄]]の紹介で[[谷ナオミ]]と出会う<ref name="net"></ref>。[[賀山茂]]に[[谷ナオミ]]を紹介する<ref name="kayama">『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)11月、長女、黒岩由起子<ref group="注"> 肥沼由起子。団鬼六事務所</ref>誕生。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、[[ヤマベプロ]]作品『続・[[花と蛇]] 赤い拷問』<ref group="注">[[松原次郎]]監督。出演は[[谷ナオミ]]、[[たこ八郎]]など。[[賀山茂]]が緊縛を手伝っている。</ref>。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、この頃既に[[ピンク実演]]の脚本を書き出している<ref name="sakaba">『鬼六談義 酒場の話』[[奇譚クラブ]]1968年(昭和43年)6月号</ref>。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、団の紹介で[[辻村隆]]が石井輝男監督の『徳川女刑罰史』(東映)で緊縛指導をしている。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、[[奇譚クラブ]]12月号、および翌1月号の2回に分けて『私本 [[伊藤晴雨]]物語』。<br />
<br />
===[[鬼プロ]]時代===<br />
1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にAGアパートを借り(本拠地は真鶴の自宅)、[[鬼プロ]]を設立。[[たこ八郎]]が住み込み。<br />
<br />
1969年(昭和44年)5月、[[鬼プロ]]制作『女極道色欲一代』が公開<ref group="注">「中川プロ」制作との記述もあり。配給は[[ミリオン]]フィルム。監督:伊世亜夫。出演:里見孝二 水咲陽子 [[林美樹]] 長岡丈二 江島祐子 冬木京三 九重京司 三重街竜 園あけみ。</ref>。<br />
<br />
1969年(昭和44年)、[[奇譚クラブ]]10月号「編集部だより」に「かねて三浦半島の一角に建築しておられた邸宅がこのほど完成」とある。<br />
<br />
1969年(昭和44年)9月24日、関西テレビ「ナイトショー」の「サドの世界」に[[立川談志]]と共に出演。前田武彦、芳村真理<ref>[[奇譚クラブ]]1969年(昭和44年)12月号「サロン楽我記」</ref>。<br />
<br />
1969年(昭和44年)10月、[[芳賀書店]]から『緊縛写真』シリーズ。緊縛は[[賀山茂]]。<ref group="注">『『緊縛写真4』は1970年(昭和45年)。『緊縛写真・別巻』1−5が1970年(昭和45年)に。別巻の写真は戸塚栄作。</ref>。<br />
<br />
1969年(昭和44年)11月、鬼プロ第1回作品『女が鞭で嬲る時』公開<ref group="注">原作シナリオ名は「鬼女」</ref>。<br />
<br />
1970年(昭和45年)7月、週刊ポスト7月31日号に「今週の人」として取り上げられ、「[[花と蛇]]」を紹介。<br />
<br />
1970年(昭和45年)10月、[[東京三世社]]より[[SMセレクト]]創刊の相談を受ける。<br />
<br />
1971年(昭和46年)1月18日、青島幸夫の「おひるのワイドショー」の「性でもうけるX氏」に出演<ref>奇譚クラブ1971年(1971年)4月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197104/197104_072.html p234]</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)1月、[[ミリオン]]制作の『肉地獄』を監督。<br />
<br />
1971年(昭和46年)1月、「週刊大衆」に『'''隠花植物群'''』を連載開始。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、AGアパート時代に、[[たこ八郎]]の紹介で[[杉浦則夫]]が[[鬼プロ]]に参加。[[たこ八郎]]の[[ピンク実演]]が始まる<ref name="u">[[杉浦則夫]]から[[U]]への私信(2010年4月12日)。</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、[[芳賀書店]]から『緊縛写真大全』。写真:篠山紀信、構成・イラストレーション:[[宇野亜喜良]]。緊縛は[[浦戸宏]]。<br />
<br />
1971年(昭和46年)頃、[[鬼プロ]]4作目の映画を監督[[本木荘二郎]]で制作<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、渋谷区道玄坂の新築の三信マンションに引っ越し。<br />
<br />
1971年(昭和46年)7月、鈴木則文監督『温泉みみず芸者』(東映)に出演<ref group="注">他にも『温泉スッポン芸者』(鈴木則文監督、東映1972)、『桃子夫人の冒険』(小原宏裕監督、にっかつ1979、『ザッツ宴会<br />
テイメント』(泉谷しげる・石井聰互監督、1984)『文学賞殺人事件 大いなる助走』(鈴木則文監督、アジャックス 1989)などに出演。</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、目黒区目黒三丁目(大鳥神社近く。)に部屋数7つ300坪の豪邸を借り、タコ劇団をこちらに移す。真鶴から家族を呼ぶ<ref group="注">[[杉浦則夫]]の記憶では、真鶴から再度三浦三崎に戻っていた。夫人の実家が三崎の材木商であった。</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、『続・[[花と蛇]]』が完結。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、[[SMキング]]創刊。週間大衆に『隠花植物群』を連載開始。『'''奇譚伊藤晴雨伝'''』([[三崎書房]])を発刊。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、[[週刊実話]]10月16日号で『異常セックス特集』。[[団鬼六]]を囲むSM座談会が掲載。<br />
<br />
1972年(昭和47年)11月、『'''緋ぢりめん博徒'''』(東映、1972.11.21)(監督:[[石井輝男]]、原案:[[団鬼六]]、出演:中村英子 土田早苗 藤ひろ子 池玲子 山城新伍 菅原文太 司京子 小池朝雄)公開<br />
<br />
1973年(昭和48年)、[[鬼プロ]]の社員数が8人になる<ref name="net"></ref><ref group="注">[[たこ八郎]]、[[杉浦則夫]]、[[田代幸三]]、[[中原研一]]、[[山根麗子]]など。</ref>。<br />
<br />
===SM作家時代===<br />
1974年(昭和49年)、にっかつ『[[花と蛇]]』が公開<ref group="注">主演は[[谷ナオミ]]。監督は小沼勝。緊縛指導は[[浦戸宏]]。</ref>。[[SMキング]]廃刊し[[鬼プロ]]も解散<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1974年(昭和49年)、[[アブハンター]]に『[[花と蛇]]・完結編』連載開始。1975年までの12回。<br />
<br />
1975年(昭和50年)8月、[[日劇ミュージックホール]]「ニンフェットは密がおすき」の構成<ref group="注">藤田敏雄、平田稲雄と。田中真理、瀬間千恵がゲスト。</ref><ref name="MH">『The Nichigeki Music Hall』(東宝, 1982)</ref>。<br />
<br />
1976年(昭和51年)2月27日ー4月20日、[[日劇ミュージックホール]]に出演した[[谷ナオミ]]の「春の夜のおんな絵巻」を演出<ref name="net"></ref><ref group="注">全体で二部15景だが、その中の第一部第八景『'''大和路哀歌'''』が'''団鬼六'''の作・演出。第八景の出演は[[谷ナオミ]]、あきつ未来、夏ユリヤ、小川純、鶴見博。第一部の構成・演出;伊藤潤、第二部の作・選出:里吉しげみ、他の景での主な出演:松原美紀 小川純 舞悦子 浅茅けいこ 水原まゆみ あき竹城 コメディ天国など</ref>。<br />
<br />
1976年(昭和51年)、[[東京三世社]]が団鬼六賞を創設<ref group="注">第一回鬼六賞の受賞者は姫野カオルコ。</ref>。<br />
<br />
1977年(昭和52年)、世田谷区奥沢に転居<ref name="net"></ref>。大岡山に仕事場を借りる。<br />
<br />
1979年(昭和54年)、[[谷ナオミ]]が『縄と肌』で引退。<br />
<br />
1980年(昭和55年)、横浜の桜木町で売りに出ていたメリヤス工場を買い取り転居。SM道具などを陳列<ref name="hebi"></ref>。<br />
<br />
1980年(昭和55年)、シングルレコード『あきかぜ』をリリース。サンケイスポーツに『鬼六あぶらんだむ』を連載開始。<br />
<br />
1982年(昭和57年)、[[鬼プロ]]再結成<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1983年(昭和58年)、最初の妻、三枝子と離婚。[[鬼プロ]]再解散<ref name="net"></ref>。<br />
<br />
1983年(昭和58年)7月、[[日劇ミュージックホール]]の公演「演歌 IN エロス 女からおんなへ」二幕第六景の作・演出<ref group="注">[[賀山茂]]によると実際の演出は[[賀山茂]]がおこなった。</ref>。<br />
<br />
1984年(昭和59年)6月、演歌歌手、宮本安紀子([[黒岩安紀子]])と再婚<ref group="注">1945年(昭和20)年1月12日東京生まれ。一時、[[団鬼六]]の秘書をしていたが、やがてテレビ神奈川に就職して管理職に。同局をやめて演歌歌手としてデビューした頃に結婚。</ref>。<br />
<br />
1984年(昭和59年)9月、角川書店から『[[花と蛇]]』の初の文庫本化。全8巻。[[見城徹]]の企画。<br />
<br />
1985年(昭和60年)、初の自伝『蛇の道は』(白夜書房)を刊行。<br />
<br />
1986年(昭和61年)、桜木町の自宅前のささや旅館を9,000万円で買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。<ref name="hebi"></ref><ref group="注">三百坪で屋上にはビアガーテン。土地代総工費合わせて5億円。</ref>。<br />
<br />
1986年(昭和61年)、父、'''黒岩信行'''が74才で永眠<ref name="yurusi3">[[大崎善生]]『'''赦しの鬼 [[団鬼六]]の生涯'''』第九回「小説新潮」2012年(平成24年)3月号</ref>。<br />
<br />
1987年(昭和62年)、『'''[[伊藤晴雨]]物語''']』(河出文庫)を発刊。次男、黒岩信彦誕生。<br />
<br />
===断筆時代===<br />
1989年(平成元年)、SM小説断筆宣言。将棋に関するエッセイに絞る。<br />
<br />
1989年(平成元年)、日本アマチュア将棋連盟発行の機関紙『将棋ジャーナル』を買い取る。<br />
<br />
1994年(平成6年)、『将棋ジャーナル』廃刊。多額の負債を抱える。<br />
<br />
===復活から現在まで===<br />
1995年(平成7年)1月、[[長池士]]の運営する、SMサークル『アムス』の分科会の一つとして『鬼六の会』が発足<ref group="注">元々は独立した団体であったが、1995年からアムスが管理運営(団の昔のHPより)。</ref>。<br />
<br />
1995年(平成7年)、『'''真剣師・小池重明'''』(イーストプレス)で執筆活動を再開。<br />
<br />
1995年(平成7年)、東京・浜田山の借家に移る。<br />
<br />
1996年(平成8年)、[[伊藤晴雨]]の伝記『'''外道の群れ'''』(朝日ソノラマ)。<br />
<br />
1996年(平成8年)6月22日、「鬼六まつり96『外道の群れ』の出版を祝う会」開催。ゲスト:[[明智伝鬼]]、[[蕾火]]、[[炎華]]。<br />
<br />
1997年(平成9年)、脳梗塞で入院。<br />
<br />
1998年(平成10年)5月、秋田市での『第20回日本文化デザイン会議 '98秋田』で公開講座。第5講「緊縛芸術」で[[明智伝鬼]]、[[大岡玲]]、[[河原敏文]]、[[島田雅彦]]、[[団鬼六]]の対談。<br />
<br />
1999年(平成11年)10月、かつての[[鬼プロ]]復活を意識した「花紅舎」が設立される<ref group="注">代表取締役:坂本利建、取締役:[[中原研一]]、黒岩幸彦、[[黒岩安紀子]]、大石実。東京都千代田区外神田2丁目2番19号。2003年3月には代表取締役:阪本利建、取締役:黒岩幸彦、[[黒岩安紀子]]。東京都渋谷区広尾1丁目9番20号 TM広尾6F。同7月には新宿区早稲田町83 SOビル B1。</ref>。<br />
<br />
1999年(平成11年)、CD『団鬼六 東海林太郎を唄う』をリリース。<br />
<br />
2002年(平成14年)、[[伊藤晴雨]]の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。<br />
<br />
2002年(平成14年)、『紅姉妹』(シネマジック)を監督。原作は「肉体の賭け」。<br />
<br />
2004年(平成16年)、東映ビデオ『[[花と蛇]]』(監督:[[石井隆]]、緊縛指導:[[有末剛]]、主演:[[杉本彩]]) が公開。<br />
<br />
2005年(平成17年)9月6日、東京厚生年金会館にて『'''[[明智伝鬼追悼式]]'''』(発起人:[[団鬼六]]、[[高須基仁]]、[[桜田伝次郎]]、[[早川佳克]])<br />
<br />
2006年(平成18年)、人工透析拒否宣言<ref group="注">ただし、翌年には医師の説得で受け入れる。</ref>。<br />
<br />
2009年(平成21年)7月、特攻隊員と少女の恋愛小説『'''往きて還らず'''』(新潮社)<br />
<br />
2010年(平成22年)、食道がんであることを公表<ref>『残日録・春-我、ガンになりたり』「小説新潮」2010年(平成22年)5月号。</ref>。<br />
<br />
2010年(平成22年)、[[無双舎]]、季刊「悦」が「[[団鬼六]]賞」創設<ref group="注">選考委員は団鬼六、重松清、高橋源一郎、睦月影郎。</ref>。第1回受賞は[[花房観音]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/486408467X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=486408467X 花祀り]'''』。<br />
<br />
2011年(平成23年)4月10日、3月11日の東日本大震災後初のブログの書き込み「日本人は決してへこたれない、立派な国民だ」<ref group="注">ブログにアップされたのは18日</ref>。<br />
<br />
2011年(平成23年)5月6日、食道がんにより没。<br />
<br />
2011年(平成23年)5月16日、港区増上寺にて告別式。弔辞は[[見城徹]]、米長邦雄<ref group="注">日本将棋連盟会長</ref>、[[谷ナオミ]]。<br />
<br />
2012年(平成24年)2月、第2回「[[団鬼六]]賞」、大賞:[[うかみ綾乃]]『蝮の舌』、優秀作:沢里裕二『淫府再興』 <br />
<br />
2013年(平成25年)10月27日、赤坂歌楽歌良屋での『'''[[団鬼六]]師を偲ぶ集い~鴇色の蹴出し~'''』。主催:クリエイティブスタジオ煉瓦。出演:[[早乙女宏美]]、[[蕾火]]、[[杉浦則夫]]、[[鏡堂みやび]]、[[黒岩安紀子]]、[[奈加あきら]]、三宅貴代美。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*高校時代は剣道部に所属。その時の師範から試刀術を学んだことが、後の刀剣コレクションに影響する。<br />
*横浜市出身の力士で1992年(平成4年)東前頭4枚目にまで上がった鬼雷砲を幕下時代から応援しており、1991年(平成3年)の入幕時の記念祝賀会を主催している。<br />
*[[千草忠夫]]は熱烈な『[[花と蛇]]』の支持者で、団が三崎で英語教師をしていた頃、三崎まで訪問。その後、夏休み毎に三崎を訪問し、1週間ばかり団の家に泊まっていた<ref name="kyotaro">西村京太郎・団鬼六『昭和ヒトケタ世代の現役宣言』[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 [[幻冬舎]]『花は紅―団鬼六の世界』pp42-pp52 ([[幻冬舎]], 1999)]</ref>。<br />
*映画製作で熱海の「起雲閣」をよく使った<ref>堀江珠喜『団鬼六の耽美世界」in [http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)]</ref>。<br />
*[[立川談志]]の立川一門に属し、'''立川鬼六'''という名をもつ。<br />
<br />
==代表作==<br />
===[[花と蛇]]===<br />
[[花と蛇]]のページにまとめている。<br />
===自伝===<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J9ABNS?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J9ABNS '''鬼六談義''']』([[芳賀書店]], 1970)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766903072?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4766903072 '''鬼六あぶらんだむ''']』(笠倉出版社, 1981)<ref group="注">1986年に勁文社から文庫化</ref><br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4766922107?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4766922107 '''SMに市民権を与えたのは私です''']』(勁文社, 1995)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877284818?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877284818 '''蛇のみちは―団鬼六自伝''']』([[幻冬舎]], 1997)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/416322730X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=416322730X '''生きかた下手''']』(2004, 文藝春秋)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4344980107?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4344980107 '''快楽なくして何が人生''']』(2006, [[幻冬舎]])<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062160420?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4062160420 '''悦楽王''']』(2010, 講談社)<br />
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/406216552X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=406216552X '''死んでたまるか 自伝エッセイ''']』(2011, 講談社)<br />
<br />
===[[団鬼六の主な小説]]===<br />
[[団鬼六の主な小説]]にまとめてある。<br />
<br />
===写真集===<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真'''』([[芳賀書店]], 1969.10)(緊縛:[[賀山茂]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真2'''』([[芳賀書店]], 1969)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真3'''』([[芳賀書店]], 1969)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''SM写真集 薔薇の鏡'''』(書肆そうび館, 1969.8.1)(販売:[[芳賀書店]]、文:[[団鬼六]] 別府新 塩川章、装幀:ばん・やすき、レイアウト:剣未知子、写真:砂地好美、発行者:章田芳雄)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真4'''』([[芳賀書店]], 1970)<br />
*[[団鬼六]]『'''[[団鬼六]]SM映画作品集'''』(発行:[[耽美館]]、販売:[[芳賀書店]], 1970.8.15)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻1'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻2'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻3'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''緊縛写真・別巻4'''』([[耽美館]], 1970)(写真;[[戸塚栄作]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花1'''』([[耽美館]], 1970)(写真:[[小川源次郎]]、製作:[[鬼プロ]]、モデル:瀬川ルミ、川村冬子、瀬戸由紀、三田洋子)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花2'''』([[耽美館]], 197?)(写真:[[賀山茂]]、製作:[[鬼プロ]]、モデル:藤沢ナナ、島江梨子、沖さとみ、渕上啓子、村西房江)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花3'''』([[耽美館]], 1971)(写真:[[戸塚栄作]]、製作:[[鬼プロ]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花4'''』([[耽美館]], 1971)(写真:[[黒羽京太郎]]、製作:[[鬼プロ]])<br />
*[[団鬼六]]監修『'''地獄花5'''』([[耽美館]], 1971)(写真:吉岡順三郎、製作:[[鬼プロ]])<br />
*[[団鬼六]]『'''緊縛幻想コレクター'''』(撮影:[[山口たかし]]、装丁:黒田征一郎・長友啓典、モデル:[[島江梨子]]、[[茜みさお]]、[[藤沢ナナ]], [[芳賀書店]], 1971)<br />
*[[団鬼六]]監修『'''愛奴1'''』([[耽美館]], 1972)(写真:[[白濱静麿]]、製作:[[鬼プロ]])<br />
*[[団鬼六]]『'''鬼六写真メモ SM耽美文学別巻1'''』([[耽美館]], 1972)<br />
*[[団鬼六]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4898292410/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4898292410 異形の遊戯]'''』(ワニマガジン, 1996.7.10)(発行人:平田昌兵、アートディレクション:武田和久、写真:[[山崎シンジ]]、緊縛師:[[明智伝鬼]]、[[長池士]]、絵:[[春日章]]、[[小妻要]]、[[春川ナミオ]]、モデル:[[小川実那子]]他)<br />
*神蔵美子『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4838710658/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4838710658&linkCode=as2&tag=iq05-2 たまゆら]'''』(マガジンハウス, 1998.7)(サングラスなしの[[明智伝鬼]]や[[団鬼六]]他が女装姿でモデルとなっている)<br />
<br />
===[[鬼六談義]]===<br />
[[鬼六談義]]のページに移行。<br />
===団研究本===<br />
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J7K89M?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J7K89M 平岡正明・岡庭昇『団鬼六・暗黒文学の世界』(三一書房, 1982)]<br />
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4877282831?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4877282831 『花は紅―団鬼六の世界』([[幻冬舎]], 1999)]<br />
*[http://www.amazon.co.jp/gp/product/430997595X?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430997595X 『団鬼六―愛と悦楽の文学』(河出書房新社, 2000)]<br />
*[[大崎善生]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4104594032/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4104594032&linkCode=as2&tag=iq05-22 赦す人]'''』(新潮社, 2012.11.30)<br />
<br />
===映画===<br />
*『'''大穴'''』(松竹, 1960)(監督:内川清一郎、脚本:菊島隆三、原作:[[団鬼六|黒岩松次郎]]、音楽:佐藤勝、撮影:太田喜晴、美術:水谷浩、出演:杉浦直樹 芳村真理 花菱アチャコ 清川虹子 山茶花究 上田吉二郎 左卜全) <br />
*その他、[[ヤマベプロ]]、[[鬼プロ]]、[[花と蛇]]、[[谷ナオミ]]などに映画関係の情報。<br />
===[[奇譚クラブ]]の映画シナリオ===<br />
[[団鬼六の映画シナリオ]]に移動。<br />
===芝居===<br />
*[[花と蛇]]の舞台化は[[花と蛇]]のページ参照。<br />
*北区つかこうへい劇団『'''往きて還らず'''』(原作:[[団鬼六]]、脚本:石川朝子、演出:逸見輝羊、出演:木下智恵、吉田学、小川智之、杉山圭一、北田理道) 2010年(平成22年)12月16日ー19日 於 北区滝野川会館大ホール<ref group="注">企画後につかこうへいはがんで死去。残った劇団員が公演を実現した。</ref><br />
<br />
==引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==つながり==<br />
[[吉田稔]]<br />
[[須磨利之]]<br />
[[辻村隆]]<br />
[[賀山茂]]<br />
[[山邊信雄]]<br />
[[谷ナオミ]]<br />
[[杉浦則夫]]<br />
[[たこ八郎]]<br />
[[有末剛]]<br />
[[田代幸三]]<br />
[[本木荘二郎]]<br />
[[中原研一]]<br />
[[長池士]]<br />
[[山根麗子]]<br />
[[リッキー梶原]]<br />
<br />
==お役たちweb==<br />
*[http://oniroku.net/ 団鬼六オフィシャルサイト]<br />
*[http://www.oni6.com/ 旧団鬼六オフィシャルサイト]<br />
*[http://pochi74.hp.infoseek.co.jp/hanahebi00X.htm 「花と蛇」年代記]<br />
*[http://homepage2.nifty.com/074/hana201.htm 団鬼六長編作品リスト]<br />
*[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10361575543.html 映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六]<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店] <br />
<br />
<br />
{{Dokuji-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:たんおにろく}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:文筆家]]<br />
[[Category:仕掛人]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E9%A6%99%E5%8F%96%E7%92%B0&diff=47701
香取環
2017-07-23T23:24:47Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>'''かとり たまき'''、1939年(昭和14年)10月21日<ref name="docu">*[[村井實|村井実]]監修『ドキュメント 成人映画』(シネトピア10/15増刊, [[ミリオン出版]], 1978)</ref>-2015年(平成27年)10月12日<br />
<br />
==活動内容==<br />
[[ピンク映画]]初期に活躍した女優。<br />
<br />
==別名==<br />
佐久間しのぶ<ref name="Wikipedia">Wikipediaより</ref><br />
久木登紀子(本名)<ref name="Wikipedia"></ref><br />
<br />
==略歴==<br />
1939年(昭和14年)10月21日、熊本県に生まれる<ref name="Wikipedia"></ref>。<br />
<br />
[[日活]]第四期ニューフェイスに採用<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[日活]]を退社。<br />
<br />
1962年(昭和37年)3月、最初の[[ピンク映画]]とされる[[小林悟]]監督『'''[[肉体の市場]]'''』([[協立映画]])の主演。<br />
<br />
1966年(昭和41年)頃、[[葵映画]]の専属となり[[西原儀一]]作品に出演。<br />
<br />
2015年(平成27年)10月12日、永眠。<br />
==エピソード==<br />
*九州女学院高校に在学中にミスユニバース熊本代表。<br />
*「日本で最初のポルノ女優」「ピンク女優・第一号」と称されることもある<ref name="Wikipedia"></ref>。<br />
*元夫は俳優の船戸順、ピンク映画監督の奥脇敏夫<ref name="Wikipedia"></ref>。<br />
*[[白川和子]]は香取の付き人を担当していた時期がある<ref name="Wikipedia"></ref>。<br />
==代表作==<br />
*『'''[[奇譚クラブ]] [[花と蛇]]より 骨まで縛れ'''』([[ヤマベプロ]], 1966.06)<ref group="注">『続・[[花と蛇]]』を映画化したもの。[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)11月号『[[鬼六談義]] 三文マニヤ文士』、[[世田介一|中宮栄]]『'''奇譚雑談 夜の徒然草'''』[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196610/02/169.html p172]、東山映史『'''最近の縛り映画から'''』[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196612/01/011.html p14]、および、[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196610/01/019.html p22]「編集部便り」にこの映画について引用されている。</ref>。配給:ムービー配給社、監督:[[本木荘二郎|高木丈夫]] [[山邊信雄|岸信太郎]]、原作・脚本:[[団鬼六]]、企画:[[寿御代子]]、出演:[[小峰由紀]]<ref group="注">東山映史『'''最近の縛り映画から'''』[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196612/01/011.html p14]では、主演女優が'''小岸綾子'''のような書き方をしている。また日本映画データベースでは、 [[火鳥こずえ]]の名がリストされているが、ポスターではここにリストされているキャスト名が明記されている。</ref> [[香取環]] [[森三千代]] [[山吹ゆかり]] [[山中渓子]] [[里見孝二]] [[木南清]] [[山本昌平]]<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:かとり たまき}}<br />
[[Category:映画女優]]<br />
[[Category:1960年代の映画女優]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E9%A6%99%E5%8F%96%E7%92%B0&diff=47700
香取環
2017-07-23T23:20:37Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>'''かとり たまき'''、1939年(昭和14年)10月21日<ref name="docu">*[[村井實|村井実]]監修『ドキュメント 成人映画』(シネトピア10/15増刊, [[ミリオン出版]], 1978)</ref>-2015年(平成27年)10月12日<br />
<br />
==活動内容==<br />
[[ピンク映画]]初期に活躍した女優。<br />
<br />
==別名==<br />
佐久間しのぶ<ref name="Wikipedia">Wikipediaより</ref><br />
久木登紀子(本名)<ref name="Wikipedia"></ref><br />
<br />
==略歴==<br />
1939年(昭和14年)10月21日、熊本県に生まれる<ref name="Wikipedia"></ref>。<br />
<br />
[[日活]]第四期ニューフェイスに採用<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[日活]]を退社。<br />
<br />
1962年(昭和37年)3月、最初の[[ピンク映画]]とされる[[小林悟]]監督『肉体の市場』(協立映画)の主演。<br />
<br />
1966年(昭和41年)頃、葵映画の専属となり[[西原儀一]]作品に出演。<br />
<br />
2015年(平成27年)10月12日、永眠。<br />
==エピソード==<br />
*九州女学院高校に在学中にミスユニバース熊本代表。<br />
*「日本で最初のポルノ女優」「ピンク女優・第一号」と称されることもある<ref name="Wikipedia"></ref>。<br />
*元夫は俳優の船戸順、ピンク映画監督の奥脇敏夫<ref name="Wikipedia"></ref>。<br />
*[[白川和子]]は香取の付き人を担当していた時期がある<ref name="Wikipedia"></ref>。<br />
==代表作==<br />
*『'''[[奇譚クラブ]] [[花と蛇]]より 骨まで縛れ'''』([[ヤマベプロ]], 1966.06)<ref group="注">『続・[[花と蛇]]』を映画化したもの。[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)11月号『[[鬼六談義]] 三文マニヤ文士』、[[世田介一|中宮栄]]『'''奇譚雑談 夜の徒然草'''』[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196610/02/169.html p172]、東山映史『'''最近の縛り映画から'''』[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196612/01/011.html p14]、および、[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196610/01/019.html p22]「編集部便り」にこの映画について引用されている。</ref>。配給:ムービー配給社、監督:[[本木荘二郎|高木丈夫]] [[山邊信雄|岸信太郎]]、原作・脚本:[[団鬼六]]、企画:[[寿御代子]]、出演:[[小峰由紀]]<ref group="注">東山映史『'''最近の縛り映画から'''』[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196612/01/011.html p14]では、主演女優が'''小岸綾子'''のような書き方をしている。また日本映画データベースでは、 [[火鳥こずえ]]の名がリストされているが、ポスターではここにリストされているキャスト名が明記されている。</ref> [[香取環]] [[森三千代]] [[山吹ゆかり]] [[山中渓子]] [[里見孝二]] [[木南清]] [[山本昌平]]<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:かとり たまき}}<br />
[[Category:映画女優]]<br />
[[Category:1960年代の映画女優]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E3%81%9F%E3%81%93%E5%85%AB%E9%83%8E&diff=47698
たこ八郎
2017-07-23T08:42:58Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:tako.jpg|150px|thumbnail|たこ八郎 (1940-1985)]]<br />
[[画像:takohachiro2.jpg|150px|thumbnail|[[たこ八郎]]は 『'''たこでーす'''』(アス出版, 1983)に「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。」と書いている。[[1965年版「花と蛇」]]のことと推察される。]]<br />
<br />
'''たこ はちろう'''、1940年(昭和15年)11月23日 - 1985年(昭和60年)7月24日。ボクシング日本フライ級チャンピョンから由利徹に弟子入りしてコメディアンに転身。[[ヤマベプロ]]の[[1965年版「花と蛇」]]に出演。[[団鬼六]]の鬼プロにも関与。[[須磨利之]]、[[濡木痴夢男]]とも交遊。<br />
==概要==<br />
ボクサー。俳優。SM界のつながりとしては、[[団鬼六]]の主催する鬼プロで[[ピンク実演]]の役者として活躍していた。それ以前にも[[山邊信雄]]、[[団鬼六]]の製作するSM[[ピンク映画]]に出演していた。[[杉浦則夫]]を[[団鬼六]]に引き合わせたのもたこ八郎である。また、一時たこ八郎が店主をつとめていた新宿の「たこ部屋」には[[美濃村晃]]、[[濡木痴夢男]]などが出入りしていた。たこ八郎自身にSMの趣味があったという証言はない。<br />
<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Hachiro_Tako Hachiro Tako]、斎藤清作(本名) 、タコ八郎、[[太古八郎]]、河童の清作、たこちゃん、たこ<br />
<br />
==略歴==<br />
1940年(昭和15年)11月23日、宮城県仙台市郊外苦竹村に生まれる<ref name="sasakura">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4087494705?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4087494705 笹倉明『昭和のチャンプ たこ八郎物語』(集英社, 1989) ]これは1984年の同氏『天の誰かが好いていた』を加筆改訂したもの。</ref>。<br />
<br />
1940年代、小学生の頃、泥が目に入り左目の視力をほぼ失う<ref name="sasakura"></ref>。<br />
<br />
1950年代、ボクシングで宮城県高校王者に2度なる<ref name="sasakura"></ref>。<br />
<br />
1958年(昭和33年)、 銀座の貴金属店「銀パリ宝飾」に就職<ref name="sasakura"></ref><ref group="注">『たこでーす』では「銀パリ宝飾」ではなく「銀水堂」となっている。</ref>。半年で辞めて学芸大学前にアパートを借り、映画のフィルムを自転車で映画館から映画館に運ぶ仕事<ref group="注">『たこでーす』では「銀水堂」の系列の「池上劇場」に支配人見習いで入ったが、フィルム運びに回されたと書いている。</ref>。<br />
<br />
1959年(昭和34年)の暮れ 笹崎ボクシングジムを見つけて入会<ref name="sasakura"></ref><ref group="注">『たこでーす』では、この頃フィルム運びもやめたとある。旋盤工を新たに始めた。</ref>。同期にファイティング原田。<br />
<br />
1960年(昭和35年)9月、プロデビュー<ref name="sasakura"></ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)12月28日、日本フライ級王座に挑戦。野口恭に10回判定勝ちで王座獲得。以後2回防衛<ref name="sasakura"></ref>。<br />
<br />
1963年頃、最初の由利徹に弟子入りを希望<ref group="注">困った由利は、防衛を重ねて、ファンを増やし、どうしようもなくなった時に再度来なさいと追い返す。</ref><ref name="sasakura"></ref>。<br />
<br />
1964年(昭和39年)4月2日、日本王座3度目の防衛戦。10回判定で敗れ王座陥落し、現役引退<ref name="sasakura"></ref><ref group="注">戦績は四一戦三二勝八敗一分け。KO負けはなし。</ref>。<br />
<br />
1964年(昭和39年)春、再び由利徹を訪れ弟子入り<ref name="sasakura"></ref>。浅草の[[ストリップ]]劇場である国際劇場などに出ていた<ref group="注">仕出し(その他大勢)で[[日劇ミュージックホール|日劇]]や新宿コマにも出ていた。</ref>。「[[たこ八郎|太古八郎]]」の芸名はこの頃由利につけてもらう<ref name="tako">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4900402036?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4900402036 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)]</ref>。<br />
<br />
1965年(昭和40年)、由利の所を去る。失禁、言語障害の後遺症に悩まされる<ref name="sasakura"></ref>。<br />
<br />
1965年(昭和40年)、[[山邊信雄]]と知り合い、「テレビ放送」でアニメ「恐妻天国」の怪獣役の吹き込みや[[ヤマベプロ]]のピンク映画に出演<ref name="yamabe">[[山邊信雄]]氏へのインタビュー by U (2010.5.2)</ref>。<br />
<br />
1965年(昭和40年)、[[ヤマベプロ]]の[[1965年版「花と蛇」]]に出演<ref name="yamabe"></ref>。<br />
<br />
1965年(昭和40年)頃、[[ヤマベプロ]]の仕事と平行してコメディアンの仕事も再開。由利徹の紹介で[[日劇ミュージックホール]]にいた泉和助<ref group="注">ボードビリアンで、タップ、手品、殺陣などもこなした。1958年(昭和33年)頃ヨーロッパで修行していた。</ref>のところに1年ほど通う<ref name="tako"></ref>。<br />
<br />
1966年(昭和41年)7月、[[日劇ミュージックホール]]「ハローJAPAN」に元ボクシング王者の異色タレントとして東郷輝久と共に出演<ref name="MH">『The Nichigeki Music Hall』(東宝, 1982)</ref>。<br />
<br />
1966年(昭和41年)、泉和助の紹介で浅草[[ストリップ]]の泉太郎<ref group="注">泉和助の弟子で、後の二代目泉ワ輔。小太郎とも呼ばれていた。</ref>の劇団「泉太郎と喜劇の楽園」に入団。芝居のない時は「太郎ちゃんトリオ」で地方を回る。2年間いたが、この時期にトレードマークのヘアスタイルを確立<ref name="tako"></ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)頃、はな太郎<ref group="注">由利徹一門。</ref>のところに2年間ほど世話になる。はな太郎とは一緒に仕事はせずに居候。[[ピンク実演]]<ref group="注">[[団鬼六]]がシナリオを書き、新宿座、[[SM聖地#.E5.9C.B0.E7.90.83.E5.BA.A7|地球座]]で映画の間に公演。[[白川和子]]、[[谷ナオミ]]、二条朱美、[[山本昌平]]と。</ref>にも出だす。由利徹のところを出てから役10年間は住所不定の生活<ref name="tako"></ref>。<br />
<br />
1968年(昭和43年)、[[ヤマベプロ]]作品の『鞭と陰獣』『続・[[花と蛇]] 赤い拷問』(いずれも[[松原次郎]]監督)などに出演。<br />
<br />
1968年頃?、歌舞伎町の「竹馬」で赤塚不二夫と知り合う<ref name="tako"></ref>。<br />
<br />
1969年(昭和44年)、[[団鬼六]]が『鬼プロ』を設立。渋谷の桜ヶ丘にアパートを借りて事務所。事務所の留守役に、浅草のストリップ劇場に出演していたたこ八郎を雇ったとある。<br />
<br />
1970年前後、たこ劇団に[[田中小実昌]]が出演して、新宿の地球座でタコと田中の裸踊りをやった、とある。上演後、ゴールデン街の、田中の贔屓にしていた「前田」、タコの贔屓にしていた「小茶」で飲む、とある<ref>[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062160420?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4062160420 団鬼六『悦楽王』(2010, 講談社)]</ref>。<br />
<br />
1971年(昭和46年)、『新網走番外地 吹雪の大脱走』(東映)に出演。<br />
<br />
1970年代初頭、[[外波山文明]]と知り合う<ref group="注">新宿の飲み屋「小茶」で出会う。「小茶」はたこの行きつけの店らしく、柄本明との出会いもこの「小茶」である。「たこは百人町から100mぐらいのところに住んでいた。コメディアンとして独立し、山本や東映の映画に出ていた。百人町に「たこ部屋」という飲み屋を開いていた。」「たこは70年代半ば仕事がなかった。昔、浅草のキャバレーやストリップ小屋でコントを演じていた懐かしさもあり、しょっちゅう入り浸る。」とある。</ref><ref name="asahi">[[外波山文明]]『中央線の詩」沿線風景』(朝日新聞連載記事、2006)</ref>。<br />
<br />
1970年(昭和45年)12月、[[実話情報]]12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集の『'''[[ピンク実演]]の”あしたのジョー”?[[たこ八郎|太古八郎]]'''』で[[深井俊彦]]がコメディアン四回戦ボーイの[[たこ八郎]]にエールを送る<ref group="注">「現在主として恵通興行の地球座チェーンでピンク実演」とある。</ref><br />
<br />
1971年(昭和46年)、たこが[[浅草フランス座|浅草東洋劇場]]で照明係をやっていた、[[杉浦則夫]]を鬼プロに連れてくる。タコ八郎を座長として[[SM聖地#.E5.9C.B0.E7.90.83.E5.BA.A7|地球座]]等で[[ピンク実演]]をおこなう。<br />
<br />
1973年(昭和48年)頃、新宿百人町に[[たこ八郎|たこ部屋]]を開く<ref name="king">深井俊彦「続・舞台の上のマゾ女優」(SMキング、1973年(昭和48年)5月号, p260-261)</ref><ref name="shibai97">[http://pl-fs.kir.jp/nureki/sibai/97/index.htm 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十七回]</ref><ref name="shibai98">[http://pl-fs.kir.jp/nureki/sibai/98/index.htm 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十八回]</ref><ref group="注">[[深井俊彦]]が、この頃、「新宿「[[たこ八郎|たこ部屋]]」の二階に30歳年下の愛妻と住んでいる」と記載されている。これが、新宿百人町の四畳半のアパートだと思われる。たこ部屋については、[[濡木痴夢男]]が「井上荘という木造二階建てのアパートの一階・・・たこ八郎はその二階の四畳半の部屋で寝起きしていた」、「この井上荘の所有者の女性は、浅草に住む作家・吉村平吉と古い知り合いで、作家・高見順にゆかりのある人」「あそこの大家さんがやってて、そのあと、娘のユウコちゃんがやって・・・『たこちゃん、やんなかいか』って言われて、やっちゃったの」</ref>。「たこ部屋」は数年続く<ref name="tako"></ref>。<br />
<br />
1974年(昭和49年)、鈴木則文監督『聖獣学園』(多岐川裕美主演、東映、1974)に出演。<br />
<br />
1976年(昭和51年)、[[外波山文明]]主宰の「はみだし劇場」浅草公演『浅草円舞曲』に出演<ref group="注">朝日新聞に「たこ八郎・アングラ劇で二度目の浅草」として取り上げられる。</ref>。<br />
<br />
1976年(昭和51年)、久世光彦製作のTBSドラマ『さくらの唄』(山田太一原作、出演:桃井かおり他)にレギュラー出演<ref group="注">久世光彦のドラマでは他にも「ムー一族」(1977年(昭和52年))との細川俊之とのコンビが話題になる。</ref>。<br />
<br />
1977年(昭和52年)、『幸福の黄色いハンカチ』(山田洋次監督。松竹)に出演。<br />
<br />
1978年(昭和53年)、[[映画関係者|山本晋也]]監督、『未亡人下宿 初のり』(にっかつ、1978)に出演。<br />
<br />
1979年(昭和54年)、[[映画関係者|山本晋也]]監督、『赤塚不二夫のポルノギャグ 気分を出してもう一度』(にっかつ、1979)で柄本明と共演。これを機に、東京乾電池の楽日に数回出演。<br />
<br />
1983年(昭和58年)8月、新宿百人町の6畳のアパートに引っ越し。<br />
<br />
1985年(昭和60年)7月24日、[[外波山文明]]の店「クラクラ」閉店後、仲間5人で真鶴漁港(神奈川)に遊びに行き、遊泳中に心臓麻痺で死亡。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*梶原一騎の「あしたのジョー」のジョーがたこ八郎、力石がファィティング原田をモデルにしたという説が流布している。オリジナルな出典が明らかでないが[[深井俊彦]]も言及している<ref name="jitsuwa">[[深井俊彦]]『'''[[ピンク実演]]の”あしたのジョー”?[[たこ八郎|太古八郎]]'''』([[実話情報]]12月臨時増刊 エロスのアルバム第8集、1970年(昭和45年)12月, p144-148</ref>。<br />
*[[映画関係者|山本晋也]]監督は、昭和40年代の実演ショーの思い出として『実演は信じられないほどの入りだった。[[SM聖地#.E5.9C.B0.E7.90.83.E5.BA.A7|地球座]]でたこ八郎が、ベットシーンやりながら「ベトナムでは戦争しているのにこれでいいのだろーか」といったのが印象に残っている』と語っている<ref>[[野上正義]]『ちんこんか ピンク映画はどこへ行く』(三一書房, 1985)</ref>。<br />
*ボクシング好きの[[須磨利之]]は、「カッパの清作がやっている店へご案内しますよ」と[[濡木痴夢男|濡木]]をたこ部屋に連れて行った<ref name="shibai97"></ref>。<br />
*[[濡木痴夢男|濡木]]の『奇妙な家畜人ヤプー』<ref name="shibai99">[http://pl-fs.kir.jp/nureki/sibai/99/index.htm 濡木痴夢男のおしゃべり芝居 第九十九回]</ref>では、「東銀座の三原橋の下にあった映画館(=[[SM聖地#.E5.9C.B0.E7.90.83.E5.BA.A7|銀座地球座]]、現在のシネパトス)の舞台で、「家畜人ヤプー」と題した芝居をやっており、そこに、たこ八郎が出演」「宇宙人に扮し、しきりに「キャッ、キャッ」という奇声を発し、手足をふり回していた」との記述がある。<br />
*国際劇場での由利徹『爆笑大忠臣蔵』で舞台上で脱糞したエピソードを書いている<ref name="tako"></ref>。<br />
<br />
==作品==<br />
===初期ピンク映画===<br />
{{1965年版「花と蛇」}}<br />
*『'''汚辱の女'''』([[ヤマベプロ]], 1966.6)(企画・製作:[[山邊信雄]]、監督:[[本木荘二郎|高木丈夫]]、[[山邊信雄|岸信太郎]]、助監督:能利潤、脚色:[[団鬼六|黒岩松次郎 ]]「山の肌」、撮影:山本晃、音楽:東儀一郎、美術:多田雄蔵、照明:森康、編集:宮田二三夫、製作主任:山田富三郎、出演:山吹ゆかり [[松井康子]] [可能かず子|[可能かずこ]] 伊海田弘 [[山本昌平]] 原良輔 北村淳 [[たこ八郎|太古八郎]] 山中渓子 園あけみ 瀬川広 山岸浩 肝付兼太 二路あをい))<br />
*『'''鞭と陰獣'''』(1968)(製作:[[ヤマベプロ]]、監督:松原次郎、脚本:[[団鬼六]]、出演:[[谷ナオミ]] 長岡丈二 [[祝真理]] 山浦ひろみ 原町田金造 里見孝二 宮瀬健二 [[たこ八郎|太古八郎]] 森誠一郎 千曲守夫 大沢一)<br />
*『'''続・[[花と蛇]] 赤い拷問'''』<ref group="注">[[奇譚クラブ]]1968年(昭和43年)10月号『[[鬼六談義]] どさ回りの話』の中で伊豆・下賀茂でのロケの様子が紹介されている。[[賀山茂]]が参加。[[奇譚クラブ]]1968年(昭和43年)9月号にシナリオ掲載。</ref>(1968)(製作:[[ヤマベプロ]]、監督:[[松原次郎]]、脚本:[[団鬼六]]、出演:[[谷ナオミ]] [[たこ八郎|太古八郎]]、[[滝リエ]]、伊海田弘、[[祝真理|祝マリ]]、里見孝二、瀬川宏、北村淳、宮瀬健二)<br />
<br />
==参考資料==<br />
<references/><br />
<br />
==注釈==<br />
<references group="注"/> <br />
==つながり==<br />
[[映画における緊縛指導 〜番外編2〜 たこ八郎]]<br />
[[団鬼六]]<br />
[[杉浦則夫]]<br />
[[濡木痴夢男]]<br />
[[深井俊彦]]<br />
[[外波山文明]]<br />
<br />
==お役たちweb==<br />
*[[映画における緊縛指導 〜番外編2〜 たこ八郎]]<br />
<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:たこ はちろう}}<br />
[[Category:SM周辺文化]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:映画男優]]<br />
[[Category:1960年代の映画男優]]<br />
[[Category:1970年代の映画男優]]<br />
[[Category:1980年代の映画男優]]<br />
[[Category:ストリップ]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=1965%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%80%8C%E8%8A%B1%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AF%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%82%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F&diff=47697
1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?
2017-07-23T08:42:42Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:HtH1965b.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ表([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:SMPlay4.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号の '''小林悟'''『日本映画の中のSMロマン』。ここに[[1965年版「花と蛇」]]を手がけたと明記している。]]<br />
[[画像:takohachiro2.jpg|150px|thumbnail|[[たこ八郎]]は 『'''たこでーす'''』(アス出版, 1983)に「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。」と書いている。[[1965年版「花と蛇」]]のことと推察される。]]<br />
<br />
==概要==<br />
1974年から始まる[[にっかつ]]での『[[花と蛇]]』『[[団鬼六]]』ブームが目立つために見落とされがちだが、『[[花と蛇]]』の最初の映画化は[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]が1965年に作製した、[[ピンク映画]]である[[1965年版「花と蛇」]]である。企画は[[東京企画]]の設立者[[三田浩]]の夫人である[[三島佳子]]が担当し、[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]、[[麻木正美]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケがおこなわれた。監督は[[山邊信雄]]の変名、[[岸信太郎]]とする記録が多いが、[[小林悟]]であった可能性を示唆する情報もある。<br />
==いろいろな情報==<br />
{{1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?}}<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
[[若松孝二と「花と蛇」]]<br />
{{Dokuji-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:1965ねんばんはなとへび}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:昭和SM文化]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Takohachiro2.jpg&diff=47696
ファイル:Takohachiro2.jpg
2017-07-23T08:41:49Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div></div>
ボテル
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1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?
2017-07-23T08:40:49Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:HtH1965b.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ表([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:SMPlay4.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号の '''小林悟'''『日本映画の中のSMロマン』。ここに[[1965年版「花と蛇」]]を手がけたと明記している。]]<br />
[[画像:takohachiro2.jpg|150px|thumbnail|[[たこ八郎]]は 『'''たこでーす'''』(アス出版, 1983)に「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。」と書いている。]]<br />
<br />
==概要==<br />
1974年から始まる[[にっかつ]]での『[[花と蛇]]』『[[団鬼六]]』ブームが目立つために見落とされがちだが、『[[花と蛇]]』の最初の映画化は[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]が1965年に作製した、[[ピンク映画]]である[[1965年版「花と蛇」]]である。企画は[[東京企画]]の設立者[[三田浩]]の夫人である[[三島佳子]]が担当し、[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]、[[麻木正美]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケがおこなわれた。監督は[[山邊信雄]]の変名、[[岸信太郎]]とする記録が多いが、[[小林悟]]であった可能性を示唆する情報もある。<br />
==いろいろな情報==<br />
{{1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?}}<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
[[若松孝二と「花と蛇」]]<br />
{{Dokuji-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:1965ねんばんはなとへび}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:昭和SM文化]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:SMPlay4.jpg&diff=47694
ファイル:SMPlay4.jpg
2017-07-23T08:35:12Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div></div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=1965%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%80%8C%E8%8A%B1%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AF%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%82%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F&diff=47693
1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?
2017-07-23T08:34:51Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:HtH1965b.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ表([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:SMPlay4.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号の '''小林悟'''『日本映画の中のSMロマン』。ここに[[1965年版「花と蛇」]]を手がけたと明記している。]]<br />
<br />
==概要==<br />
1974年から始まる[[にっかつ]]での『[[花と蛇]]』『[[団鬼六]]』ブームが目立つために見落とされがちだが、『[[花と蛇]]』の最初の映画化は[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]が1965年に作製した、[[ピンク映画]]である[[1965年版「花と蛇」]]である。企画は[[東京企画]]の設立者[[三田浩]]の夫人である[[三島佳子]]が担当し、[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]、[[麻木正美]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケがおこなわれた。監督は[[山邊信雄]]の変名、[[岸信太郎]]とする記録が多いが、[[小林悟]]であった可能性を示唆する情報もある。<br />
==いろいろな情報==<br />
{{1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?}}<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
[[若松孝二と「花と蛇」]]<br />
{{Dokuji-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:1965ねんばんはなとへび}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:昭和SM文化]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=1965%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%80%8C%E8%8A%B1%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%80%8D&diff=47692
1965年版「花と蛇」
2017-07-23T08:28:40Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:HtH1965b.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ表([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:HtH1965c.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ裏([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:HtH1965.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』。[[成人映画]]1965年10月号より]]<br />
[[山邊信雄]]が「[[花と蛇]]」を原作に[[団鬼六]]の脚本で作製。[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケ。[[奇譚クラブ]]で話題。 <br />
==概要==<br />
1974年から始まる[[にっかつ]]での『[[花と蛇]]』『[[団鬼六]]』ブームが目立つために見落とされがちだが、『[[花と蛇]]』の最初の映画化は[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]が1965年に作製した、[[ピンク映画]]である[[1965年版「花と蛇」]]である。企画は[[東京企画]]の設立者[[三田浩]]の夫人である[[三島佳子]]が担当し、[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]、[[麻木正美]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケがおこなわれた。監督は[[山邊信雄]]の変名、[[岸信太郎]]とする記録が多いが、[[小林悟]]であった可能性を示唆する情報もある。主演女優の[[紫千鶴]]が、マキノ映画などに出演していた1932年(昭和7年)生まれの女優なのか、同姓同名の別人かについてもはっきりしない。<br />
<br />
[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]コンビは、1960年代に[[ヤマベプロ]]から『[[花と蛇]]』を原作と謳う『'''奇譚クラブ 花と蛇より 骨まで縛れ'''』『'''縄と乳房'''』『'''鞭と肌'''』『'''続・花と蛇 赤い拷問'''』『'''花と蛇より 肉の飼育'''』も作製している。<br />
<br />
==スタッフ・出演者<ref name="poster">現存するチラシの情報をベースとしている。</ref>==<br />
製作:[[山辺信雄]]<br><br />
制作:[[ヤマベプロダクション]]<br><br />
配給:[[東京企画]]<br><br />
企画:[[三島佳子]]<br><br />
脚本:[[団鬼六]]<br><br />
監督:[[岸信太郎]]<br><br />
撮影:[[杉田安久利]]<br><br />
照明:東京映画照明<br><br />
音楽:[[西山登]]<br><br />
録音:[[星野敏昭]]<br><br />
助監督:[[安藤利男]]<br><br />
制作主任:[[矢島進]]<br><br />
録音所:[[目黒スタジオ]]<br><br />
協力:[[熱海城]]<br><br />
川田健二:[[伊海田弘]]<br><br />
遠山静子:[[紫千鶴]]<ref group="注">日本女優辞典では、[[紫千鶴]]は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消したとされている。[[奇譚クラブ]]には何回か、「[[花と蛇]]」の主演女優として[[紫千鶴]]の名前が出てくる。</ref><br><br />
遠山隆義:[[須永康夫]]<br><br />
桂子:[[火鳥こずえ]]<br><br />
町子:[[麻木正美]]<br><br />
木村:[[山本昌平]]<br><br />
高岡:[[太古八郎]]<br><br />
鬼村:[[水原瞭]]<br><br />
菊江:[[森まさみ]]<br><br />
京子:[[立花みゆき]]<br><br />
村瀬:[[近藤敏夫]]<br><br />
旅館女中:[[美川和子]]<br><br />
ホテル女中:[[葵加代子]]<br><br />
ホテル女中A:[[二路あをい]]<br><br />
大谷:[[近藤光政]]<br><br />
映倫番号:14003。<br />
==[[1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?]]==<br />
{{1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?}}<br />
<br />
==主演女優[[紫千鶴]]は元[[新東宝]]・[[松竹]]の女優か?==<br />
[[画像:murasakichiyo.jpg|150px|thumbnail|『'''伝七捕物帖 銀蛇呪文'''』([[松竹]], 1957)での[[紫千代]]([[紫千鶴]])の磔シーン。[[美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム3'''』([[久保書店]]、1965)より。]]<br />
情宣チラシには遠山静子役は「[[紫千鶴]]」と明記されており、映画データベースや奇譚クラブの読者投稿にも「[[紫千鶴]]」の名が出てくる。この「[[紫千鶴]]」が、1932年(昭和7年)生まれで[[新東宝]]の森繁作品などに出ていた[[紫千鶴]]なのか、あるいは同姓同名の別人なのかははっきりしない。<br />
<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、主演女優がタカオユリという名前だったのではないかといった発言をしている。<br />
*mixiのみか鈴情報で、[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0912090.htm 高尾ユリ]という女優が1965年頃に活動している。<br />
*『[[鬼六談義]] 映画「[[花と蛇]]」』では「[[紫千鶴]]は[[火石プロ]]に所属する21才」とある。一方、日本女優辞典では、1932年(昭和7年)6月25日生まれ、とあるので、不一致。ただし、[[団鬼六]]が[[火鳥こずえ]]と混同している可能性もある。<br />
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[花と蛇]]の解説で「主演の[[紫千鶴]]はこれ一本で消えた」と書いている<ref name="Nikaido2014"></ref>。<br />
<br />
==[[若松孝二]]は関係しているか?==<br />
[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。ただし1965年(昭和40年)には[[若松孝二]]は監督として独立しているので、助監督として正式に参加したと考えるには無理がある。チラシでは助監督は[[安藤利男]]となっている。<br />
<br />
*[[若松孝二]]氏へのインタビューでは、[[山邊信雄]]の作品の助監督をやった事実はないとのことだった<ref name="wakamatsu"> 電話インタビュー by U (2011.9.1)</ref>。<br />
*[[山邊信雄]]と[[若松孝二]]の関係は、1960年前後の「[[宣弘社]]」時代から始まり、[[若松孝二]]は、最初はスタジオに弁当を仕入れる仕事をしていた。[[山邊信雄]]によると親分・子分のような関係だったということだ<ref name="yamabe"></ref>。<br />
*[[若松孝二]]氏へのインタビューでは、「[[山邊信雄]]とは弁当はこびの頃に出会った。」「音響の手伝いをしていた。」「山邊さんの車は磨かされていた。」とのことである<ref name="yamabe"></ref>。<br />
*[[山本昌平]]氏や[[山吹ゆかり]]氏へのインタビューでは、ヤマベプロの撮影現場に(時期は不明だが)、[[若松孝二]]がしばしばいたと述べている。<br />
*同時期に[[若松孝二]]が[[熱海城]]で『'''冒涜の罠'''』を撮影しており<ref>[[成人映画]]1965年(昭和40年)7月創刊号。</ref>、何らかの関係があったのかもしれない。<br />
*[[若松孝二]]の監督デビュー作は[[東京企画]]の『'''甘い罠'''』(1963)である。その後、[[国映]]に移籍。<br />
<br />
==ロケ地[[熱海城]]について==<br />
[[画像:Atamijo.jpg|150px|thumbnail|2012年(平成24年)での[[熱海城]]]]<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、撮影は、当時宿泊施設を兼ねていた「[[熱海城]]」でおこなわれたとあり、チラシの協力=[[熱海城]]と一致する。<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>によると、[[熱海城]]の支配人は[[山邊信雄]]の父親の元・秘書であった。<br />
*[[山本昌平]]氏へのインタビューで、「[[花と蛇]]」の映画撮影で何か思い出すかの質問に、「[[熱海城]]で[[谷ナオミ]]主演で最初の「花と蛇」を撮影したんだっかな」との返答であったが、おそらく[[1965年版「花と蛇」]]とその後の「[[花と蛇]]」関連の[[ヤマベプロ]]作品の記憶が一緒になっていたと思われる。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*ポスターには「奇譚クラブ連載”花と蛇”の映画化」と明記している。<br />
<br />
==1965年版「花と蛇」に関する[[奇譚クラブ]]の記事==<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196508/175.html p178]『[[鬼六談議]] 映画「[[花と蛇]]」』で撮影秘話。<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)9月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196509/PAGE123.html p123]には、橘行司子『映画「[[花と蛇]]」遂に完成 その朗報を背景に生きた編集ますます快調』、<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)11月号には、魔猿生『映画通信 映画「[[花と蛇]]」を見る』<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)12月号には、藤村若葉『嗚呼、鼻、鼻、鼻。映画「[[花と蛇]]」に見る鼻責め』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/03/215.html p218]<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)5月号には、橘雅美『映画「[[花と蛇]]」鑑賞記』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)6月号には、立町老梅『私の空想 [[花と蛇]]の配役と感想』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)9月号の[[辻村隆]]「サロン楽我記」に見逃したここと、[[紫千鶴]]と対談できそうだと。<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
[[若松孝二と「花と蛇」]]<br />
<br />
{{Dokuji-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:はなとへび1965}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88:1965%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%80%8C%E8%8A%B1%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AF%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%82%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F&diff=47691
テンプレート:1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?
2017-07-23T08:28:38Z
<p>ボテル: ページの作成:「情宣チラシには「監督:岸信太郎(=山邊信雄)」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシや...」</p>
<hr />
<div>情宣チラシには「監督:[[岸信太郎]](=[[山邊信雄]])」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシやポスターが情報源と思われる)[[岸信太郎]]の監督作品とされている。一方で、[[山邊信雄]]本人は[[小林悟]]が監督であったと述べており、複数の周辺情報は[[小林悟]]が監督であったことを支持しており、真相は謎である。<br />
<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。この点、チラシなどの一般情報と異なっている。<br />
*[[団鬼六]]の[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号『[[鬼六談義]]では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。<br />
*[[小林悟]]自身が「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>と述懐している。<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)2月号の[[鬼六談義]]には「『[[花と蛇]]』が[[国映]]から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「[[新東宝]]健在なりし頃のベテラン監督。古くからの[[奇譚クラブ]]の読者。」とある。K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。<br />
*[[たこ八郎]]は「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている<ref name="tako">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4900402036?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4900402036 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)]</ref>。<br />
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[ヤマベプロ]]の解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・[[小林悟]])」と書いている<ref name="Nikaido2014">[[二階堂卓也]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120292/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4779120292&linkCode=as2&tag=iq05-22 ピンク映画史: 欲望のむきだし]'''』([[彩流社]], 2014)</ref>。</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=1965%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%80%8C%E8%8A%B1%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%80%8D%E3%81%AE%E7%9B%A3%E7%9D%A3%E3%81%AF%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%82%9F%E3%81%8B%EF%BC%9F&diff=47690
1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?
2017-07-23T08:28:11Z
<p>ボテル: ページの作成:「[[ヤマベプロ1965年製作『花と蛇』チラシ表(Nuit de Tokyo氏所蔵)]] ==概要== 1974年から始まる...」</p>
<hr />
<div>[[画像:HtH1965b.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ表([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
==概要==<br />
1974年から始まる[[にっかつ]]での『[[花と蛇]]』『[[団鬼六]]』ブームが目立つために見落とされがちだが、『[[花と蛇]]』の最初の映画化は[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]が1965年に作製した、[[ピンク映画]]である[[1965年版「花と蛇」]]である。企画は[[東京企画]]の設立者[[三田浩]]の夫人である[[三島佳子]]が担当し、[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]、[[麻木正美]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケがおこなわれた。監督は[[山邊信雄]]の変名、[[岸信太郎]]とする記録が多いが、[[小林悟]]であった可能性を示唆する情報もある<br />
==いろいろな情報==<br />
{{1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?}}<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
[[若松孝二と「花と蛇」]]<br />
{{Dokuji-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:1965ねんばんはなとへび}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:昭和SM文化]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=1965%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%80%8C%E8%8A%B1%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%80%8D&diff=47689
1965年版「花と蛇」
2017-07-23T08:25:50Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:HtH1965b.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ表([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:HtH1965c.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ裏([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:HtH1965.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』。[[成人映画]]1965年10月号より]]<br />
[[山邊信雄]]が「[[花と蛇]]」を原作に[[団鬼六]]の脚本で作製。[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケ。[[奇譚クラブ]]で話題。 <br />
==概要==<br />
1974年から始まる[[にっかつ]]での『[[花と蛇]]』『[[団鬼六]]』ブームが目立つために見落とされがちだが、『[[花と蛇]]』の最初の映画化は[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]が1965年に作製した、[[ピンク映画]]である[[1965年版「花と蛇」]]である。企画は[[東京企画]]の設立者[[三田浩]]の夫人である[[三島佳子]]が担当し、[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]、[[麻木正美]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケがおこなわれた。監督は[[山邊信雄]]の変名、[[岸信太郎]]とする記録が多いが、[[小林悟]]であった可能性を示唆する情報もある。主演女優の[[紫千鶴]]が、マキノ映画などに出演していた1932年(昭和7年)生まれの女優なのか、同姓同名の別人かについてもはっきりしない。<br />
<br />
[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]コンビは、1960年代に[[ヤマベプロ]]から『[[花と蛇]]』を原作と謳う『'''奇譚クラブ 花と蛇より 骨まで縛れ'''』『'''縄と乳房'''』『'''鞭と肌'''』『'''続・花と蛇 赤い拷問'''』『'''花と蛇より 肉の飼育'''』も作製している。<br />
<br />
==スタッフ・出演者<ref name="poster">現存するチラシの情報をベースとしている。</ref>==<br />
製作:[[山辺信雄]]<br><br />
制作:[[ヤマベプロダクション]]<br><br />
配給:[[東京企画]]<br><br />
企画:[[三島佳子]]<br><br />
脚本:[[団鬼六]]<br><br />
監督:[[岸信太郎]]<br><br />
撮影:[[杉田安久利]]<br><br />
照明:東京映画照明<br><br />
音楽:[[西山登]]<br><br />
録音:[[星野敏昭]]<br><br />
助監督:[[安藤利男]]<br><br />
制作主任:[[矢島進]]<br><br />
録音所:[[目黒スタジオ]]<br><br />
協力:[[熱海城]]<br><br />
川田健二:[[伊海田弘]]<br><br />
遠山静子:[[紫千鶴]]<ref group="注">日本女優辞典では、[[紫千鶴]]は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消したとされている。[[奇譚クラブ]]には何回か、「[[花と蛇]]」の主演女優として[[紫千鶴]]の名前が出てくる。</ref><br><br />
遠山隆義:[[須永康夫]]<br><br />
桂子:[[火鳥こずえ]]<br><br />
町子:[[麻木正美]]<br><br />
木村:[[山本昌平]]<br><br />
高岡:[[太古八郎]]<br><br />
鬼村:[[水原瞭]]<br><br />
菊江:[[森まさみ]]<br><br />
京子:[[立花みゆき]]<br><br />
村瀬:[[近藤敏夫]]<br><br />
旅館女中:[[美川和子]]<br><br />
ホテル女中:[[葵加代子]]<br><br />
ホテル女中A:[[二路あをい]]<br><br />
大谷:[[近藤光政]]<br><br />
映倫番号:14003。<br />
==[[1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?]]==<br />
情宣チラシには「監督:[[岸信太郎]](=[[山邊信雄]])」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシやポスターが情報源と思われる)[[岸信太郎]]の監督作品とされている。一方で、[[山邊信雄]]本人は[[小林悟]]が監督であったと述べており、複数の周辺情報は[[小林悟]]が監督であったことを支持しており、真相は謎である。<br />
<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。この点、チラシなどの一般情報と異なっている。<br />
*[[団鬼六]]の[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号『[[鬼六談義]]では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。<br />
*[[小林悟]]自身が「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>と述懐している。<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)2月号の[[鬼六談義]]には「『[[花と蛇]]』が[[国映]]から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「[[新東宝]]健在なりし頃のベテラン監督。古くからの[[奇譚クラブ]]の読者。」とある。K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。<br />
*[[たこ八郎]]は「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている<ref name="tako">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4900402036?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4900402036 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)]</ref>。<br />
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[ヤマベプロ]]の解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・[[小林悟]])」と書いている<ref name="Nikaido2014">[[二階堂卓也]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120292/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4779120292&linkCode=as2&tag=iq05-22 ピンク映画史: 欲望のむきだし]'''』([[彩流社]], 2014)</ref>。<br />
<br />
==主演女優[[紫千鶴]]は元[[新東宝]]・[[松竹]]の女優か?==<br />
[[画像:murasakichiyo.jpg|150px|thumbnail|『'''伝七捕物帖 銀蛇呪文'''』([[松竹]], 1957)での[[紫千代]]([[紫千鶴]])の磔シーン。[[美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム3'''』([[久保書店]]、1965)より。]]<br />
情宣チラシには遠山静子役は「[[紫千鶴]]」と明記されており、映画データベースや奇譚クラブの読者投稿にも「[[紫千鶴]]」の名が出てくる。この「[[紫千鶴]]」が、1932年(昭和7年)生まれで[[新東宝]]の森繁作品などに出ていた[[紫千鶴]]なのか、あるいは同姓同名の別人なのかははっきりしない。<br />
<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、主演女優がタカオユリという名前だったのではないかといった発言をしている。<br />
*mixiのみか鈴情報で、[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0912090.htm 高尾ユリ]という女優が1965年頃に活動している。<br />
*『[[鬼六談義]] 映画「[[花と蛇]]」』では「[[紫千鶴]]は[[火石プロ]]に所属する21才」とある。一方、日本女優辞典では、1932年(昭和7年)6月25日生まれ、とあるので、不一致。ただし、[[団鬼六]]が[[火鳥こずえ]]と混同している可能性もある。<br />
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[花と蛇]]の解説で「主演の[[紫千鶴]]はこれ一本で消えた」と書いている<ref name="Nikaido2014"></ref>。<br />
<br />
==[[若松孝二]]は関係しているか?==<br />
[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。ただし1965年(昭和40年)には[[若松孝二]]は監督として独立しているので、助監督として正式に参加したと考えるには無理がある。チラシでは助監督は[[安藤利男]]となっている。<br />
<br />
*[[若松孝二]]氏へのインタビューでは、[[山邊信雄]]の作品の助監督をやった事実はないとのことだった<ref name="wakamatsu"> 電話インタビュー by U (2011.9.1)</ref>。<br />
*[[山邊信雄]]と[[若松孝二]]の関係は、1960年前後の「[[宣弘社]]」時代から始まり、[[若松孝二]]は、最初はスタジオに弁当を仕入れる仕事をしていた。[[山邊信雄]]によると親分・子分のような関係だったということだ<ref name="yamabe"></ref>。<br />
*[[若松孝二]]氏へのインタビューでは、「[[山邊信雄]]とは弁当はこびの頃に出会った。」「音響の手伝いをしていた。」「山邊さんの車は磨かされていた。」とのことである<ref name="yamabe"></ref>。<br />
*[[山本昌平]]氏や[[山吹ゆかり]]氏へのインタビューでは、ヤマベプロの撮影現場に(時期は不明だが)、[[若松孝二]]がしばしばいたと述べている。<br />
*同時期に[[若松孝二]]が[[熱海城]]で『'''冒涜の罠'''』を撮影しており<ref>[[成人映画]]1965年(昭和40年)7月創刊号。</ref>、何らかの関係があったのかもしれない。<br />
*[[若松孝二]]の監督デビュー作は[[東京企画]]の『'''甘い罠'''』(1963)である。その後、[[国映]]に移籍。<br />
<br />
==ロケ地[[熱海城]]について==<br />
[[画像:Atamijo.jpg|150px|thumbnail|2012年(平成24年)での[[熱海城]]]]<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、撮影は、当時宿泊施設を兼ねていた「[[熱海城]]」でおこなわれたとあり、チラシの協力=[[熱海城]]と一致する。<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>によると、[[熱海城]]の支配人は[[山邊信雄]]の父親の元・秘書であった。<br />
*[[山本昌平]]氏へのインタビューで、「[[花と蛇]]」の映画撮影で何か思い出すかの質問に、「[[熱海城]]で[[谷ナオミ]]主演で最初の「花と蛇」を撮影したんだっかな」との返答であったが、おそらく[[1965年版「花と蛇」]]とその後の「[[花と蛇]]」関連の[[ヤマベプロ]]作品の記憶が一緒になっていたと思われる。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*ポスターには「奇譚クラブ連載”花と蛇”の映画化」と明記している。<br />
<br />
==1965年版「花と蛇」に関する[[奇譚クラブ]]の記事==<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196508/175.html p178]『[[鬼六談議]] 映画「[[花と蛇]]」』で撮影秘話。<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)9月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196509/PAGE123.html p123]には、橘行司子『映画「[[花と蛇]]」遂に完成 その朗報を背景に生きた編集ますます快調』、<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)11月号には、魔猿生『映画通信 映画「[[花と蛇]]」を見る』<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)12月号には、藤村若葉『嗚呼、鼻、鼻、鼻。映画「[[花と蛇]]」に見る鼻責め』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/03/215.html p218]<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)5月号には、橘雅美『映画「[[花と蛇]]」鑑賞記』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)6月号には、立町老梅『私の空想 [[花と蛇]]の配役と感想』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)9月号の[[辻村隆]]「サロン楽我記」に見逃したここと、[[紫千鶴]]と対談できそうだと。<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
[[若松孝二と「花と蛇」]]<br />
<br />
{{Dokuji-stub}}<br />
{{DEFAULTSORT:はなとへび1965}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=1965%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%80%8C%E8%8A%B1%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%80%8D&diff=47688
1965年版「花と蛇」
2017-07-23T08:24:29Z
<p>ボテル: /* 監督は山邊信雄(岸信太郎)か小林悟か? */</p>
<hr />
<div>{{Dokuji-stub}}<br />
[[画像:HtH1965b.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ表([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:HtH1965c.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ裏([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:HtH1965.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』。[[成人映画]]1965年10月号より]]<br />
[[山邊信雄]]が「[[花と蛇]]」を原作に[[団鬼六]]の脚本で作製。[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケ。[[奇譚クラブ]]で話題。 <br />
==概要==<br />
1974年から始まる[[にっかつ]]での『[[花と蛇]]』『[[団鬼六]]』ブームが目立つために見落とされがちだが、『[[花と蛇]]』の最初の映画化は[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]が1965年に作製した、[[ピンク映画]]である[[1965年版「花と蛇」]]である。企画は[[東京企画]]の設立者[[三田浩]]の夫人である[[三島佳子]]が担当し、[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]、[[麻木正美]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケがおこなわれた。監督は[[山邊信雄]]の変名、[[岸信太郎]]とする記録が多いが、[[小林悟]]であった可能性を示唆する情報もある。主演女優の[[紫千鶴]]が、マキノ映画などに出演していた1932年(昭和7年)生まれの女優なのか、同姓同名の別人かについてもはっきりしない。<br />
<br />
[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]コンビは、1960年代に[[ヤマベプロ]]から『[[花と蛇]]』を原作と謳う『'''奇譚クラブ 花と蛇より 骨まで縛れ'''』『'''縄と乳房'''』『'''鞭と肌'''』『'''続・花と蛇 赤い拷問'''』『'''花と蛇より 肉の飼育'''』も作製している。<br />
<br />
==スタッフ・出演者<ref name="poster">現存するチラシの情報をベースとしている。</ref>==<br />
製作:[[山辺信雄]]<br><br />
制作:[[ヤマベプロダクション]]<br><br />
配給:[[東京企画]]<br><br />
企画:[[三島佳子]]<br><br />
脚本:[[団鬼六]]<br><br />
監督:[[岸信太郎]]<br><br />
撮影:[[杉田安久利]]<br><br />
照明:東京映画照明<br><br />
音楽:[[西山登]]<br><br />
録音:[[星野敏昭]]<br><br />
助監督:[[安藤利男]]<br><br />
制作主任:[[矢島進]]<br><br />
録音所:[[目黒スタジオ]]<br><br />
協力:[[熱海城]]<br><br />
川田健二:[[伊海田弘]]<br><br />
遠山静子:[[紫千鶴]]<ref group="注">日本女優辞典では、[[紫千鶴]]は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消したとされている。[[奇譚クラブ]]には何回か、「[[花と蛇]]」の主演女優として[[紫千鶴]]の名前が出てくる。</ref><br><br />
遠山隆義:[[須永康夫]]<br><br />
桂子:[[火鳥こずえ]]<br><br />
町子:[[麻木正美]]<br><br />
木村:[[山本昌平]]<br><br />
高岡:[[太古八郎]]<br><br />
鬼村:[[水原瞭]]<br><br />
菊江:[[森まさみ]]<br><br />
京子:[[立花みゆき]]<br><br />
村瀬:[[近藤敏夫]]<br><br />
旅館女中:[[美川和子]]<br><br />
ホテル女中:[[葵加代子]]<br><br />
ホテル女中A:[[二路あをい]]<br><br />
大谷:[[近藤光政]]<br><br />
映倫番号:14003。<br />
==[[1965年版「花と蛇」の監督は小林悟か?]]==<br />
情宣チラシには「監督:[[岸信太郎]](=[[山邊信雄]])」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシやポスターが情報源と思われる)[[岸信太郎]]の監督作品とされている。一方で、[[山邊信雄]]本人は[[小林悟]]が監督であったと述べており、複数の周辺情報は[[小林悟]]が監督であったことを支持しており、真相は謎である。<br />
<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。この点、チラシなどの一般情報と異なっている。<br />
*[[団鬼六]]の[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号『[[鬼六談義]]では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。<br />
*[[小林悟]]自身が「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>と述懐している。<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)2月号の[[鬼六談義]]には「『[[花と蛇]]』が[[国映]]から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「[[新東宝]]健在なりし頃のベテラン監督。古くからの[[奇譚クラブ]]の読者。」とある。K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。<br />
*[[たこ八郎]]は「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている<ref name="tako">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4900402036?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4900402036 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)]</ref>。<br />
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[ヤマベプロ]]の解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・[[小林悟]])」と書いている<ref name="Nikaido2014">[[二階堂卓也]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120292/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4779120292&linkCode=as2&tag=iq05-22 ピンク映画史: 欲望のむきだし]'''』([[彩流社]], 2014)</ref>。<br />
<br />
==主演女優[[紫千鶴]]は元[[新東宝]]・[[松竹]]の女優か?==<br />
[[画像:murasakichiyo.jpg|150px|thumbnail|『'''伝七捕物帖 銀蛇呪文'''』([[松竹]], 1957)での[[紫千代]]([[紫千鶴]])の磔シーン。[[美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム3'''』([[久保書店]]、1965)より。]]<br />
情宣チラシには遠山静子役は「[[紫千鶴]]」と明記されており、映画データベースや奇譚クラブの読者投稿にも「[[紫千鶴]]」の名が出てくる。この「[[紫千鶴]]」が、1932年(昭和7年)生まれで[[新東宝]]の森繁作品などに出ていた[[紫千鶴]]なのか、あるいは同姓同名の別人なのかははっきりしない。<br />
<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、主演女優がタカオユリという名前だったのではないかといった発言をしている。<br />
*mixiのみか鈴情報で、[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0912090.htm 高尾ユリ]という女優が1965年頃に活動している。<br />
*『[[鬼六談義]] 映画「[[花と蛇]]」』では「[[紫千鶴]]は[[火石プロ]]に所属する21才」とある。一方、日本女優辞典では、1932年(昭和7年)6月25日生まれ、とあるので、不一致。ただし、[[団鬼六]]が[[火鳥こずえ]]と混同している可能性もある。<br />
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[花と蛇]]の解説で「主演の[[紫千鶴]]はこれ一本で消えた」と書いている<ref name="Nikaido2014"></ref>。<br />
<br />
==[[若松孝二]]は関係しているか?==<br />
[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。ただし1965年(昭和40年)には[[若松孝二]]は監督として独立しているので、助監督として正式に参加したと考えるには無理がある。チラシでは助監督は[[安藤利男]]となっている。<br />
<br />
*[[若松孝二]]氏へのインタビューでは、[[山邊信雄]]の作品の助監督をやった事実はないとのことだった<ref name="wakamatsu"> 電話インタビュー by U (2011.9.1)</ref>。<br />
*[[山邊信雄]]と[[若松孝二]]の関係は、1960年前後の「[[宣弘社]]」時代から始まり、[[若松孝二]]は、最初はスタジオに弁当を仕入れる仕事をしていた。[[山邊信雄]]によると親分・子分のような関係だったということだ<ref name="yamabe"></ref>。<br />
*[[若松孝二]]氏へのインタビューでは、「[[山邊信雄]]とは弁当はこびの頃に出会った。」「音響の手伝いをしていた。」「山邊さんの車は磨かされていた。」とのことである<ref name="yamabe"></ref>。<br />
*[[山本昌平]]氏や[[山吹ゆかり]]氏へのインタビューでは、ヤマベプロの撮影現場に(時期は不明だが)、[[若松孝二]]がしばしばいたと述べている。<br />
*同時期に[[若松孝二]]が[[熱海城]]で『'''冒涜の罠'''』を撮影しており<ref>[[成人映画]]1965年(昭和40年)7月創刊号。</ref>、何らかの関係があったのかもしれない。<br />
*[[若松孝二]]の監督デビュー作は[[東京企画]]の『'''甘い罠'''』(1963)である。その後、[[国映]]に移籍。<br />
<br />
==ロケ地[[熱海城]]について==<br />
[[画像:Atamijo.jpg|150px|thumbnail|2012年(平成24年)での[[熱海城]]]]<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、撮影は、当時宿泊施設を兼ねていた「[[熱海城]]」でおこなわれたとあり、チラシの協力=[[熱海城]]と一致する。<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>によると、[[熱海城]]の支配人は[[山邊信雄]]の父親の元・秘書であった。<br />
*[[山本昌平]]氏へのインタビューで、「[[花と蛇]]」の映画撮影で何か思い出すかの質問に、「[[熱海城]]で[[谷ナオミ]]主演で最初の「花と蛇」を撮影したんだっかな」との返答であったが、おそらく[[1965年版「花と蛇」]]とその後の「[[花と蛇]]」関連の[[ヤマベプロ]]作品の記憶が一緒になっていたと思われる。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*ポスターには「奇譚クラブ連載”花と蛇”の映画化」と明記している。<br />
<br />
==1965年版「花と蛇」に関する[[奇譚クラブ]]の記事==<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196508/175.html p178]『[[鬼六談議]] 映画「[[花と蛇]]」』で撮影秘話。<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)9月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196509/PAGE123.html p123]には、橘行司子『映画「[[花と蛇]]」遂に完成 その朗報を背景に生きた編集ますます快調』、<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)11月号には、魔猿生『映画通信 映画「[[花と蛇]]」を見る』<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)12月号には、藤村若葉『嗚呼、鼻、鼻、鼻。映画「[[花と蛇]]」に見る鼻責め』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/03/215.html p218]<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)5月号には、橘雅美『映画「[[花と蛇]]」鑑賞記』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)6月号には、立町老梅『私の空想 [[花と蛇]]の配役と感想』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)9月号の[[辻村隆]]「サロン楽我記」に見逃したここと、[[紫千鶴]]と対談できそうだと。<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
[[若松孝二と「花と蛇」]]<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:はなとへび1965}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:SMPlay3.jpg&diff=47687
ファイル:SMPlay3.jpg
2017-07-23T08:10:34Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div></div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%AF%BF%E5%AE%89&diff=47686
前田寿安
2017-07-23T08:10:15Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:Juan_Maeda01.jpg|250px|thumbnail|[[前田寿安]]「日本のおんな」in 『秘婉』([[マイウェイ出版]]], 2011)]]<br />
[[画像:SMPlay3.jpg|150px|thumbnail|[[前田寿安]]『'''古都抄'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号。]]<br />
<br />
'''まえだ じゅあん'''、1939年(昭和14年)5月26日 - 。[[歌川大雅]]の門下。1963年に劇画作家としてデビュー。[[SMセレクト]]創刊号以来、SM挿絵画家、劇画家、イラストレーターとしての幅広く活動。[[団鬼六]]と共作多い。<br />
<br />
==概要==<br />
絵師。日本出版美術連盟会員。[[実話と秘録]]、[[SMマガジン]]、[[SMセレクト]]、[[小説SMセレクト]]、[[SMファン]]、[[別冊SMファン]]、[[SMクラブ]]、[[SMフェニックス]]、[[SM秘小説]]、[[SMスパイダー]]、[[マニア倶楽部]]などの多くのSM雑誌の作品発表。<br />
<br />
==別名==<br />
前田寿按、前田寿庵<br />
<br />
==略歴==<br />
1939年(昭和14年)、北海道生まれ。 <br />
<br />
1957年(昭和32年)、高校を中退し、[[歌川大雅]]の内弟子となるため上京<ref name="daughter">前田寿安氏ご息女からの私信 to U</ref>。 <br />
<br />
1963年(昭和38年)、[[芳文社]]より劇画デビュー。以後双葉社・集英社のプレイボーイ等で劇画を執筆。 <br />
<br />
1970年(昭和45年)、[[SMセレクト]]創刊号掲載の[[団鬼六]]『穴倉夫人』の挿絵<ref>これがSM雑誌へのデビューで、それ以前のSM雑誌には絵を発表していない。[[団鬼六]]とは旧知であったが、[[SMセレクト]]の話は[[東京三世社]]からの依頼。</ref><ref name="daughter"></ref>。 <br />
<br />
1972年(昭和47年)、[[SMキング]]8月創刊号から[[団鬼六]]原作『劇画 [[花と蛇]]』を連載。開始。1973年(昭和47年)4月号まで続く。<br />
<br />
1980年(昭和55年)、劇画、イラスト、挿画、スポーツ新聞の挿画等、多誌にわたって活躍。 <br />
<br />
1985年(昭和60年)、夫人の実家である長野に移り、以後長野を拠点に活動<ref name="daughter"></ref>。 <br />
<br />
1987年(昭和62年)4月21-26日、ロイヤルサロンギンザにて『'''出版画実術家連盟8人展<艶>'''』。[[小妻要]]、[[小悪征夫]]、[[堂昌一]]、[[沢登みよじ]]、[[レオ澤鬼]]、[[西村春海]]、[[日影眩]]、[[前田寿安]]。<br />
<br />
2008年(平成20年)、[[奈加あきら]]「夢流想倶楽部」レーベルのDVDジャケットを製作。<br />
<br />
2010年(平成22年)3月15日−27日、『責め絵展「闇桜」』於[[ヴァニラ画廊]]。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*中学時代から[[歌川大雅]]と交流をもっていた<ref name="daughter"></ref>。<br />
*6年以上[[歌川大雅]]宅で内弟子として修業<ref name="daughter">弟子は5人ほどで、[[前田寿安]]のみが住み込み。</ref>。「絵を教わった事は一度もないそうです。テクは盗む物・・精神だったらしく、お手伝いさんの様な生活。でも人生の基礎、わびさび等々は学んだみたいです。」「父は何度か先生に作品を見てもらいましたが『君の画く絵は色っぽすぎて大人向けだ!』と言われ路線を大人の劇画に変えて行きブレイクしはじめました。」<ref name="daughter"></ref>。<br />
*「前田寿安」の名前は[[歌川大雅]]につけてもらった<ref name="daughter"></ref>。<br />
*実弟は「[[前田海]](かい)」でやはり絵師([[歌川大雅]]の弟子ではない)<ref group="注">[[高倉一]]編集の[[檸檬社]]『[[黒の手帖]]』1971年(昭和46年)創刊号に[[前田海]]らによる「[[三島由紀夫]]・特集」がある。</ref>。2000年頃逝去。<ref name="daughter"></ref>。<br />
<br />
==作品==<br />
===画集===<br />
*[[前田寿安]][http://www.amazon.co.jp/gp/product/4883790487?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4883790487 『愛奴』](ソフトマジック, 1999)<br />
*[[前田寿安]][http://www.amazon.co.jp/gp/product/4921181012?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4921181012 『寿安―前田寿安責め絵集』](ソフトマジック, 2000)<br />
*[[前田寿安]][http://www.amazon.co.jp/gp/product/4921181144?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4921181144 『縄化粧―前田寿安作品第2集』](ソフトマジック, 2000)<br />
*『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4861355095/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4861355095 '''秘禁縄淫画廊''']』([[マイウェイ出版]], 2008)<br />
[[画像:etsugyakuhadahiga.jpg|150px|thumbnail|[[小妻容子]]・[[前田寿安]]・[[椋陽児]]『'''悦虐肌秘画三人集 艶女 惑溺の被戯宴'''』([[ヤック翔竜社]], 不明)(企画・編集:[[魁歓社]])]]<br />
*[[小妻容子]]・[[前田寿安]]・[[椋陽児]]『'''悦虐肌秘画三人集 艶女 惑溺の被戯宴'''』([[ヤック翔竜社]], 不明)(企画・編集:[[魁歓社]])<br />
*[[小妻容子]]・[[鬼頭暁]]・[[笠間しろう]]・[[前田寿按]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4861357659/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4861357659&linkCode=as2&tag=iq05-22 秘婉]'''』([[マイウェイ出版]], 2011.1.28)<br />
<br />
===絵本===<br />
*[[前田寿安|前田]]『どうぶつのおやこ』<br />
<br />
===展覧会===<br />
*[[ヴァニラ画廊]] [[前田寿安]] 責め絵展「闇桜」2010年(平成22年)3月15日~3月27日<br />
===映画===<br />
*『'''D坂の殺人事件'''』(東京テアトル, 1998)(原作:[[江戸川乱歩]]、美術:池谷仙克 [[前田寿安]]、音楽:池辺晋一郎、緊縛指導:[[早川佳克]]、監督:実相寺昭雄、助監督:高橋巌、出演:真田広之 吉行由実他)<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
*[http://sniper.jp/008sniper/0085event/post_1683.php Web Sniper, 責め絵展「闇桜」案内]<br />
*[http://homepage3.nifty.com/beckcorp/contents/two/second001extra005.html 縄による緊縛の絵画表現者]<br />
<br />
==つながり==<br />
[[団鬼六]]<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:まえだじゅあん}}<br />
[[Category:絵師]]<br />
[[Category:1960年代の絵師]]<br />
[[Category:1970年代の絵師]]<br />
[[Category:1980年代の絵師]]<br />
[[Category:1990年代の絵師]]<br />
[[Category:2000年代の絵師]]<br />
[[Category:2010年代の絵師]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47685
SMプレイ
2017-07-23T08:09:07Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay2.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号のカラーグラビア。紫に染めた縄が用いられている。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
[[画像:SMPlay3.jpg|150px|thumbnail|[[前田寿安]]『'''古都抄'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号。]]<br />
<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
:企画・監修:[[上田青柿郎]]。<br />
:ほとんどがカラー・白黒の緊縛写真。<br />
:この頃には珍しく紫色に染めた縄が使われている。<br />
:[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』<br />
:[[吉崎淳二]]『'''海外ポルノSM文学考'''』<br />
:「本誌姉妹紙「緊縛美」4月号の発売は2月」とある。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』<br />
:[[矢崎哲平]]『'''苦い恍惚'''』(挿絵:[[上田洋]])<br />
:[[前田寿安]]『'''古都抄'''』<br />
:[[小悪征夫]]<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47684
SMプレイ
2017-07-23T08:07:47Z
<p>ボテル: /* 主な出来事 */</p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay2.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号のカラーグラビア。紫に染めた縄が用いられている。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
:企画・監修:[[上田青柿郎]]。<br />
:ほとんどがカラー・白黒の緊縛写真。<br />
:この頃には珍しく紫色に染めた縄が使われている。<br />
:[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』<br />
:[[吉崎淳二]]『'''海外ポルノSM文学考'''』<br />
:「本誌姉妹紙「緊縛美」4月号の発売は2月」とある。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』<br />
:[[矢崎哲平]]『'''苦い恍惚'''』(挿絵:[[上田洋]])<br />
:[[前田寿安]]『'''古都抄'''』<br />
:[[小悪征夫]]<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47683
SMプレイ
2017-07-23T08:06:11Z
<p>ボテル: /* 主な出来事 */</p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay2.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号のカラーグラビア。紫に染めた縄が用いられている。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
:企画・監修:[[上田青柿郎]]。<br />
:ほとんどがカラー・白黒の緊縛写真。<br />
:この頃には珍しく紫色に染めた縄が使われている。<br />
:[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』<br />
:[[吉崎淳二]]『'''海外ポルノSM文学考'''』<br />
:「本誌姉妹紙「緊縛美」4月号の発売は2月」とある。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』<br />
:[[矢崎哲平]]『'''苦い恍惚'''』(挿絵:[[上田洋]])<br />
:[[小悪征夫]]<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
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小林悟
2017-07-23T08:04:11Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>'''こばやし さとる'''、1930年(昭和5年)8月1日-2001年(平成13年)11月15日<br />
<br />
==概要==<br />
ピンク映画監督。[[1965年版「花と蛇」]]の製作に何らかの形で関わっている。<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Satoru_Kobayashi Satoru Kobayashi ]、左次郎、松本千之<br />
<br />
==略歴==<br />
1930年(昭和5年)8月1日、長野県に生まれる<ref name="wiki">[http://ja.wikipedia.org/wiki/小林悟 Wikipedia]より。</ref>。<br />
<br />
1950年代、早稲田大学卒業<ref name="pink">鈴木義昭『ピンク映画水滸伝 その二〇年史』(1983, 青心社)</ref>。<br />
<br />
1954年(昭和29年)、[[新東宝]]傍系の近江プロにはいる<ref group="注">[[大蔵貢]]の実弟で、歌手で映画監督の近江俊郎が起こした</ref><ref name="pink"></ref>。やがて[[新東宝]]に移る。<br />
<br />
1958年(昭和33年)、[[石井輝男]]監督の『天城心中・天国に結ぶ恋』([[新東宝]])の助監督。<br />
<br />
1959年(昭和34年)、『狂った欲望』([[新東宝]])で監督デビュー。<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[新東宝]]が倒産後、[[大蔵映画]]に参加。<br />
<br />
1962年(昭和37年)3月、最初の[[ピンク映画]]とされる『肉体の市場』<ref group="注">主演:香取環。助監督は小川欽也。</ref>を協立映画から発表<ref group="注">協立映画が、[[大蔵映画]]の[[大蔵貢]]によって設立されたペーパーカンパニーという説があり、もしそうならば、当時[[大蔵映画]]は六番目の大手だったので、ピンク映画の定義(独立プロダクション製作によるセックス映画)から外れる。大蔵の「太平洋戦争と姫百合部隊」が未公開のため、協立映画作としたという説。ただし、この一連の説に、小川欽也監督は異議。(『アダルトメディアランダムノート』より)。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、[[小森白]]監督の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(大蔵映画)の一部を撮影当<ref name="web">[http://www.fjmovie.com/ishii/jigoku/intvw-kobayashi.htm Web]の1999インタビューより。</ref><ref group="注">「小森監督が神経衰弱で入院しちゃったので、ラッシュ後に必要なシーンを代理監督した」。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、『沖縄怪談逆吊り幽霊・支那怪談死棺破り』<br />
<br />
1964年(昭和39年)、[[大蔵貢]]監督の『明治大帝御一代記』([[大蔵映画]])の一部の撮影を担当ref name="web"></ref><ref group="注">[[新東宝]]の「明治天皇と日露大戦争」(1957)「天皇・皇后と日清戦争」(1957)「明治大帝と乃木将軍」(1959)を編集し、そこにないシーンを[[小林悟]]が撮影。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、[[池袋名画座]]の正月興行の[[松井康子]]らの[[ピンク実演]]が人気を集める。演出は[[小林悟]]<ref name="seijin15">[[成人映画]] 1967年(昭和42年)2月号(No. 15)</ref><ref group="注">「この正月興行はどこも[[ピンク実演|実演]]付きがにぎやかだった」「[[池袋名画座]]では正月四日から十日まで”[[松井康子]]とそのグループ”という出演陣で、「源氏裸物語」(演出[[小林悟]])を上演した。一日三回、四十五分のじつえん」「最高が千五百人、平均八百人というヒット」「松井をのぞく女優陣はオッパイ丸出し」出演:[[松井康子]]、白川昌雄。数名の女優。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、台湾で『紅艶女飛龍』などの現地作品10数本を監督。1972年ぐらいまで海外で活動<ref name="web"></ref>。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、松竹が作った東活に参加<ref name="pink"></ref>。<br />
<br />
1973年(昭和48年)、『鏡の中の野心』(東活) 。<br />
<br />
1999年(平成11年)、[[石井輝男]]監督の『地獄』(オーピー映画)の制作総指揮。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>。これは[[1965年版「花と蛇」]]の監督が[[小林悟]]であった説を支持する発言である。<br />
*『肉体の市場』をピンク映画の第1号とするのは映画評論家の村井実が提唱。他に[[本木荘二郎]]『肉体自由貿易』(国新映画)(同年11月)とする後藤敏説もある。<br />
*『肉体の市場』は公開後すぐの3月15日に公然猥褻の警告を受け、該当部分をすぐカット。<br />
*トリフォーやジャン=リュック・ゴダールに影響され『肉体の市場』を作った<ref name="TDC">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4813010962?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4813010962 藤木TDC『アダルトメディア・ランダムノート』(ミリオン出版, 2004)]</ref>。<br />
*[[小川欽也]]は[[小林悟]]の助監督をしていた。<br />
<br />
==代表作==<br />
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0181230.htm 日本映画データベース]<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:こばやし さとる}}<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:映画監督]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=1965%E5%B9%B4%E7%89%88%E3%80%8C%E8%8A%B1%E3%81%A8%E8%9B%87%E3%80%8D&diff=47681
1965年版「花と蛇」
2017-07-23T08:00:09Z
<p>ボテル: /* 監督は山邊信雄(岸信太郎)か小林悟か? */</p>
<hr />
<div>{{Dokuji-stub}}<br />
[[画像:HtH1965b.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ表([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:HtH1965c.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』チラシ裏([[Nuit de Tokyo]]氏所蔵)]]<br />
[[画像:HtH1965.jpg|250px|thumbnail|[[ヤマベプロ]]1965年製作『[[花と蛇]]』。[[成人映画]]1965年10月号より]]<br />
[[山邊信雄]]が「[[花と蛇]]」を原作に[[団鬼六]]の脚本で作製。[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケ。[[奇譚クラブ]]で話題。 <br />
==概要==<br />
1974年から始まる[[にっかつ]]での『[[花と蛇]]』『[[団鬼六]]』ブームが目立つために見落とされがちだが、『[[花と蛇]]』の最初の映画化は[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]が1965年に作製した、[[ピンク映画]]である[[1965年版「花と蛇」]]である。企画は[[東京企画]]の設立者[[三田浩]]の夫人である[[三島佳子]]が担当し、[[たこ八郎]]、[[山本昌平]]、[[火鳥こずえ]]、[[麻木正美]]なども出演しており、[[熱海城]]でロケがおこなわれた。監督は[[山邊信雄]]の変名、[[岸信太郎]]とする記録が多いが、[[小林悟]]であった可能性を示唆する情報もある。主演女優の[[紫千鶴]]が、マキノ映画などに出演していた1932年(昭和7年)生まれの女優なのか、同姓同名の別人かについてもはっきりしない。<br />
<br />
[[山邊信雄]]と[[団鬼六]]コンビは、1960年代に[[ヤマベプロ]]から『[[花と蛇]]』を原作と謳う『'''奇譚クラブ 花と蛇より 骨まで縛れ'''』『'''縄と乳房'''』『'''鞭と肌'''』『'''続・花と蛇 赤い拷問'''』『'''花と蛇より 肉の飼育'''』も作製している。<br />
<br />
==スタッフ・出演者<ref name="poster">現存するチラシの情報をベースとしている。</ref>==<br />
製作:[[山辺信雄]]<br><br />
制作:[[ヤマベプロダクション]]<br><br />
配給:[[東京企画]]<br><br />
企画:[[三島佳子]]<br><br />
脚本:[[団鬼六]]<br><br />
監督:[[岸信太郎]]<br><br />
撮影:[[杉田安久利]]<br><br />
照明:東京映画照明<br><br />
音楽:[[西山登]]<br><br />
録音:[[星野敏昭]]<br><br />
助監督:[[安藤利男]]<br><br />
制作主任:[[矢島進]]<br><br />
録音所:[[目黒スタジオ]]<br><br />
協力:[[熱海城]]<br><br />
川田健二:[[伊海田弘]]<br><br />
遠山静子:[[紫千鶴]]<ref group="注">日本女優辞典では、[[紫千鶴]]は1932年(昭和7年)6月25日生まれ、マキノ映画などに出演後、1956年(昭和31年)に「紫千代」に改名、1959年(昭和34年)頃には映画界から姿を消したとされている。[[奇譚クラブ]]には何回か、「[[花と蛇]]」の主演女優として[[紫千鶴]]の名前が出てくる。</ref><br><br />
遠山隆義:[[須永康夫]]<br><br />
桂子:[[火鳥こずえ]]<br><br />
町子:[[麻木正美]]<br><br />
木村:[[山本昌平]]<br><br />
高岡:[[太古八郎]]<br><br />
鬼村:[[水原瞭]]<br><br />
菊江:[[森まさみ]]<br><br />
京子:[[立花みゆき]]<br><br />
村瀬:[[近藤敏夫]]<br><br />
旅館女中:[[美川和子]]<br><br />
ホテル女中:[[葵加代子]]<br><br />
ホテル女中A:[[二路あをい]]<br><br />
大谷:[[近藤光政]]<br><br />
映倫番号:14003。<br />
==監督は[[山邊信雄]]([[岸信太郎]])か[[小林悟]]か?==<br />
情宣チラシには「監督:[[岸信太郎]](=[[山邊信雄]])」と明記されており、映画データベースなども(おそらく公開時のチラシやポスターが情報源と思われる)[[岸信太郎]]の監督作品とされている。一方で、[[山邊信雄]]本人は[[小林悟]]が監督であったと述べており、複数の周辺情報は[[小林悟]]が監督であったことを支持しており、真相は謎である。<br />
<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。この点、チラシなどの一般情報と異なっている。<br />
*[[団鬼六]]の[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号『[[鬼六談義]]では「監督されたK氏は、監督歴十何年のベテランであり、映画作りにはそつがない」とあり、K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。<br />
*[[小林悟]]自身が「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>と述懐している。<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)2月号の[[鬼六談義]]には「『[[花と蛇]]』が[[国映]]から映画化されることになった。1月にクランクイン。」「[[新東宝]]健在なりし頃のベテラン監督。古くからの[[奇譚クラブ]]の読者。」とある。K氏=[[岸信太郎]]=[[山邊信雄]]では話が合わない。<br />
*[[たこ八郎]]は「ピンク映画に最初に出たのは[[小林悟]]の『花となんとか』って映画。東映で『花と龍』ってのをやってね、それで小林さん『花となんとか』ってのを撮ったの。」と自伝で書いている<ref name="tako">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4900402036?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4900402036 たこ八郎『たこでーす』(アス出版, 1983)]</ref>。<br />
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[ヤマベプロ]]の解説で「『花と蛇』の最初の映画化を果たしたのもこの会社(一九六五年・[[小林悟]])」と書いている<ref name="Nikaido2014">[[二階堂卓也]]『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779120292/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4779120292&linkCode=as2&tag=iq05-22 ピンク映画史: 欲望のむきだし]'''』([[彩流社]], 2014)</ref>。<br />
<br />
==主演女優[[紫千鶴]]は元[[新東宝]]・[[松竹]]の女優か?==<br />
[[画像:murasakichiyo.jpg|150px|thumbnail|『'''伝七捕物帖 銀蛇呪文'''』([[松竹]], 1957)での[[紫千代]]([[紫千鶴]])の磔シーン。[[美濃村晃]]『'''スクリーン・エロティシズム3'''』([[久保書店]]、1965)より。]]<br />
情宣チラシには遠山静子役は「[[紫千鶴]]」と明記されており、映画データベースや奇譚クラブの読者投稿にも「[[紫千鶴]]」の名が出てくる。この「[[紫千鶴]]」が、1932年(昭和7年)生まれで[[新東宝]]の森繁作品などに出ていた[[紫千鶴]]なのか、あるいは同姓同名の別人なのかははっきりしない。<br />
<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、主演女優がタカオユリという名前だったのではないかといった発言をしている。<br />
*mixiのみか鈴情報で、[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0912090.htm 高尾ユリ]という女優が1965年頃に活動している。<br />
*『[[鬼六談義]] 映画「[[花と蛇]]」』では「[[紫千鶴]]は[[火石プロ]]に所属する21才」とある。一方、日本女優辞典では、1932年(昭和7年)6月25日生まれ、とあるので、不一致。ただし、[[団鬼六]]が[[火鳥こずえ]]と混同している可能性もある。<br />
*[[二階堂卓也]]は自身の書籍中の[[花と蛇]]の解説で「主演の[[紫千鶴]]はこれ一本で消えた」と書いている<ref name="Nikaido2014"></ref>。<br />
<br />
==[[若松孝二]]は関係しているか?==<br />
[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"> by U (2010.5.2)</ref>では監督が[[小林悟]]で、助監督が[[若松孝二]]であったと明確に断言している。ただし1965年(昭和40年)には[[若松孝二]]は監督として独立しているので、助監督として正式に参加したと考えるには無理がある。チラシでは助監督は[[安藤利男]]となっている。<br />
<br />
*[[若松孝二]]氏へのインタビューでは、[[山邊信雄]]の作品の助監督をやった事実はないとのことだった<ref name="wakamatsu"> 電話インタビュー by U (2011.9.1)</ref>。<br />
*[[山邊信雄]]と[[若松孝二]]の関係は、1960年前後の「[[宣弘社]]」時代から始まり、[[若松孝二]]は、最初はスタジオに弁当を仕入れる仕事をしていた。[[山邊信雄]]によると親分・子分のような関係だったということだ<ref name="yamabe"></ref>。<br />
*[[若松孝二]]氏へのインタビューでは、「[[山邊信雄]]とは弁当はこびの頃に出会った。」「音響の手伝いをしていた。」「山邊さんの車は磨かされていた。」とのことである<ref name="yamabe"></ref>。<br />
*[[山本昌平]]氏や[[山吹ゆかり]]氏へのインタビューでは、ヤマベプロの撮影現場に(時期は不明だが)、[[若松孝二]]がしばしばいたと述べている。<br />
*同時期に[[若松孝二]]が[[熱海城]]で『'''冒涜の罠'''』を撮影しており<ref>[[成人映画]]1965年(昭和40年)7月創刊号。</ref>、何らかの関係があったのかもしれない。<br />
*[[若松孝二]]の監督デビュー作は[[東京企画]]の『'''甘い罠'''』(1963)である。その後、[[国映]]に移籍。<br />
<br />
==ロケ地[[熱海城]]について==<br />
[[画像:Atamijo.jpg|150px|thumbnail|2012年(平成24年)での[[熱海城]]]]<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>では、撮影は、当時宿泊施設を兼ねていた「[[熱海城]]」でおこなわれたとあり、チラシの協力=[[熱海城]]と一致する。<br />
*[[山邊信雄]]氏へのインタビュー<ref name="yamabe"></ref>によると、[[熱海城]]の支配人は[[山邊信雄]]の父親の元・秘書であった。<br />
*[[山本昌平]]氏へのインタビューで、「[[花と蛇]]」の映画撮影で何か思い出すかの質問に、「[[熱海城]]で[[谷ナオミ]]主演で最初の「花と蛇」を撮影したんだっかな」との返答であったが、おそらく[[1965年版「花と蛇」]]とその後の「[[花と蛇]]」関連の[[ヤマベプロ]]作品の記憶が一緒になっていたと思われる。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*ポスターには「奇譚クラブ連載”花と蛇”の映画化」と明記している。<br />
<br />
==1965年版「花と蛇」に関する[[奇譚クラブ]]の記事==<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196508/175.html p178]『[[鬼六談議]] 映画「[[花と蛇]]」』で撮影秘話。<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)9月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196509/PAGE123.html p123]には、橘行司子『映画「[[花と蛇]]」遂に完成 その朗報を背景に生きた編集ますます快調』、<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)11月号には、魔猿生『映画通信 映画「[[花と蛇]]」を見る』<br />
*[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)12月号には、藤村若葉『嗚呼、鼻、鼻、鼻。映画「[[花と蛇]]」に見る鼻責め』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/03/215.html p218]<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)5月号には、橘雅美『映画「[[花と蛇]]」鑑賞記』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)6月号には、立町老梅『私の空想 [[花と蛇]]の配役と感想』<br />
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)9月号の[[辻村隆]]「サロン楽我記」に見逃したここと、[[紫千鶴]]と対談できそうだと。<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
==つながり==<br />
[[若松孝二と「花と蛇」]]<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:はなとへび1965}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%82%9F&diff=47680
小林悟
2017-07-23T07:58:58Z
<p>ボテル: /* エピソード */</p>
<hr />
<div>'''こばやし さとる'''、1930年(昭和5年)8月1日-2001年(平成13年)11月15日<br />
<br />
==概要==<br />
<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Satoru_Kobayashi Satoru Kobayashi ]、左次郎、松本千之<br />
<br />
==略歴==<br />
1930年(昭和5年)8月1日、長野県に生まれる<ref name="wiki">[http://ja.wikipedia.org/wiki/小林悟 Wikipedia]より。</ref>。<br />
<br />
1950年代、早稲田大学卒業<ref name="pink">鈴木義昭『ピンク映画水滸伝 その二〇年史』(1983, 青心社)</ref>。<br />
<br />
1954年(昭和29年)、[[新東宝]]傍系の近江プロにはいる<ref group="注">[[大蔵貢]]の実弟で、歌手で映画監督の近江俊郎が起こした</ref><ref name="pink"></ref>。やがて[[新東宝]]に移る。<br />
<br />
1958年(昭和33年)、[[石井輝男]]監督の『天城心中・天国に結ぶ恋』([[新東宝]])の助監督。<br />
<br />
1959年(昭和34年)、『狂った欲望』([[新東宝]])で監督デビュー。<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[新東宝]]が倒産後、[[大蔵映画]]に参加。<br />
<br />
1962年(昭和37年)3月、最初の[[ピンク映画]]とされる『肉体の市場』<ref group="注">主演:香取環。助監督は小川欽也。</ref>を協立映画から発表<ref group="注">協立映画が、[[大蔵映画]]の[[大蔵貢]]によって設立されたペーパーカンパニーという説があり、もしそうならば、当時[[大蔵映画]]は六番目の大手だったので、ピンク映画の定義(独立プロダクション製作によるセックス映画)から外れる。大蔵の「太平洋戦争と姫百合部隊」が未公開のため、協立映画作としたという説。ただし、この一連の説に、小川欽也監督は異議。(『アダルトメディアランダムノート』より)。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、[[小森白]]監督の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(大蔵映画)の一部を撮影当<ref name="web">[http://www.fjmovie.com/ishii/jigoku/intvw-kobayashi.htm Web]の1999インタビューより。</ref><ref group="注">「小森監督が神経衰弱で入院しちゃったので、ラッシュ後に必要なシーンを代理監督した」。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、『沖縄怪談逆吊り幽霊・支那怪談死棺破り』<br />
<br />
1964年(昭和39年)、[[大蔵貢]]監督の『明治大帝御一代記』([[大蔵映画]])の一部の撮影を担当ref name="web"></ref><ref group="注">[[新東宝]]の「明治天皇と日露大戦争」(1957)「天皇・皇后と日清戦争」(1957)「明治大帝と乃木将軍」(1959)を編集し、そこにないシーンを[[小林悟]]が撮影。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、[[池袋名画座]]の正月興行の[[松井康子]]らの[[ピンク実演]]が人気を集める。演出は[[小林悟]]<ref name="seijin15">[[成人映画]] 1967年(昭和42年)2月号(No. 15)</ref><ref group="注">「この正月興行はどこも[[ピンク実演|実演]]付きがにぎやかだった」「[[池袋名画座]]では正月四日から十日まで”[[松井康子]]とそのグループ”という出演陣で、「源氏裸物語」(演出[[小林悟]])を上演した。一日三回、四十五分のじつえん」「最高が千五百人、平均八百人というヒット」「松井をのぞく女優陣はオッパイ丸出し」出演:[[松井康子]]、白川昌雄。数名の女優。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、台湾で『紅艶女飛龍』などの現地作品10数本を監督。1972年ぐらいまで海外で活動<ref name="web"></ref>。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、松竹が作った東活に参加<ref name="pink"></ref>。<br />
<br />
1973年(昭和48年)、『鏡の中の野心』(東活) 。<br />
<br />
1999年(平成11年)、[[石井輝男]]監督の『地獄』(オーピー映画)の制作総指揮。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>。これは[[1965年版「花と蛇」]]の監督が[[小林悟]]であった説を支持する発言である。<br />
*『肉体の市場』をピンク映画の第1号とするのは映画評論家の村井実が提唱。他に[[本木荘二郎]]『肉体自由貿易』(国新映画)(同年11月)とする後藤敏説もある。<br />
*『肉体の市場』は公開後すぐの3月15日に公然猥褻の警告を受け、該当部分をすぐカット。<br />
*トリフォーやジャン=リュック・ゴダールに影響され『肉体の市場』を作った<ref name="TDC">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4813010962?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4813010962 藤木TDC『アダルトメディア・ランダムノート』(ミリオン出版, 2004)]</ref>。<br />
*[[小川欽也]]は[[小林悟]]の助監督をしていた。<br />
<br />
==代表作==<br />
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0181230.htm 日本映画データベース]<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:こばやし さとる}}<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:映画監督]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%82%9F&diff=47679
小林悟
2017-07-23T07:56:57Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>'''こばやし さとる'''、1930年(昭和5年)8月1日-2001年(平成13年)11月15日<br />
<br />
==概要==<br />
<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Satoru_Kobayashi Satoru Kobayashi ]、左次郎、松本千之<br />
<br />
==略歴==<br />
1930年(昭和5年)8月1日、長野県に生まれる<ref name="wiki">[http://ja.wikipedia.org/wiki/小林悟 Wikipedia]より。</ref>。<br />
<br />
1950年代、早稲田大学卒業<ref name="pink">鈴木義昭『ピンク映画水滸伝 その二〇年史』(1983, 青心社)</ref>。<br />
<br />
1954年(昭和29年)、[[新東宝]]傍系の近江プロにはいる<ref group="注">[[大蔵貢]]の実弟で、歌手で映画監督の近江俊郎が起こした</ref><ref name="pink"></ref>。やがて[[新東宝]]に移る。<br />
<br />
1958年(昭和33年)、[[石井輝男]]監督の『天城心中・天国に結ぶ恋』([[新東宝]])の助監督。<br />
<br />
1959年(昭和34年)、『狂った欲望』([[新東宝]])で監督デビュー。<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[新東宝]]が倒産後、[[大蔵映画]]に参加。<br />
<br />
1962年(昭和37年)3月、最初の[[ピンク映画]]とされる『肉体の市場』<ref group="注">主演:香取環。助監督は小川欽也。</ref>を協立映画から発表<ref group="注">協立映画が、[[大蔵映画]]の[[大蔵貢]]によって設立されたペーパーカンパニーという説があり、もしそうならば、当時[[大蔵映画]]は六番目の大手だったので、ピンク映画の定義(独立プロダクション製作によるセックス映画)から外れる。大蔵の「太平洋戦争と姫百合部隊」が未公開のため、協立映画作としたという説。ただし、この一連の説に、小川欽也監督は異議。(『アダルトメディアランダムノート』より)。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、[[小森白]]監督の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(大蔵映画)の一部を撮影当<ref name="web">[http://www.fjmovie.com/ishii/jigoku/intvw-kobayashi.htm Web]の1999インタビューより。</ref><ref group="注">「小森監督が神経衰弱で入院しちゃったので、ラッシュ後に必要なシーンを代理監督した」。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、『沖縄怪談逆吊り幽霊・支那怪談死棺破り』<br />
<br />
1964年(昭和39年)、[[大蔵貢]]監督の『明治大帝御一代記』([[大蔵映画]])の一部の撮影を担当ref name="web"></ref><ref group="注">[[新東宝]]の「明治天皇と日露大戦争」(1957)「天皇・皇后と日清戦争」(1957)「明治大帝と乃木将軍」(1959)を編集し、そこにないシーンを[[小林悟]]が撮影。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、[[池袋名画座]]の正月興行の[[松井康子]]らの[[ピンク実演]]が人気を集める。演出は[[小林悟]]<ref name="seijin15">[[成人映画]] 1967年(昭和42年)2月号(No. 15)</ref><ref group="注">「この正月興行はどこも[[ピンク実演|実演]]付きがにぎやかだった」「[[池袋名画座]]では正月四日から十日まで”[[松井康子]]とそのグループ”という出演陣で、「源氏裸物語」(演出[[小林悟]])を上演した。一日三回、四十五分のじつえん」「最高が千五百人、平均八百人というヒット」「松井をのぞく女優陣はオッパイ丸出し」出演:[[松井康子]]、白川昌雄。数名の女優。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、台湾で『紅艶女飛龍』などの現地作品10数本を監督。1972年ぐらいまで海外で活動<ref name="web"></ref>。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、松竹が作った東活に参加<ref name="pink"></ref>。<br />
<br />
1973年(昭和48年)、『鏡の中の野心』(東活) 。<br />
<br />
1999年(平成11年)、[[石井輝男]]監督の『地獄』(オーピー映画)の制作総指揮。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*「'''私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。'''鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref>[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号</ref>。<br />
*『肉体の市場』をピンク映画の第1号とするのは映画評論家の村井実が提唱。他に[[本木荘二郎]]『肉体自由貿易』(国新映画)(同年11月)とする後藤敏説もある。<br />
*『肉体の市場』は公開後すぐの3月15日に公然猥褻の警告を受け、該当部分をすぐカット。<br />
*トリフォーやジャン=リュック・ゴダールに影響され『肉体の市場』を作った<ref name="TDC">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4813010962?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4813010962 藤木TDC『アダルトメディア・ランダムノート』(ミリオン出版, 2004)]</ref>。<br />
*[[小川欽也]]は[[小林悟]]の助監督をしていた。<br />
<br />
==代表作==<br />
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0181230.htm 日本映画データベース]<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:こばやし さとる}}<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:映画監督]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%82%9F&diff=47678
小林悟
2017-07-23T07:56:25Z
<p>ボテル: /* エピソード */</p>
<hr />
<div>'''こばやし さとる'''、1930年(昭和5年)8月1日-2001年(平成13年)11月15日<br />
<br />
==概要==<br />
<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Satoru_Kobayashi Satoru Kobayashi ]、左次郎、松本千之<br />
<br />
==略歴==<br />
1930年(昭和5年)8月1日、長野県に生まれる<ref name="wiki">[http://ja.wikipedia.org/wiki/小林悟 Wikipedia]より。</ref>。<br />
<br />
1950年代、早稲田大学卒業<ref name="pink">鈴木義昭『ピンク映画水滸伝 その二〇年史』(1983, 青心社)</ref>。<br />
<br />
1954年(昭和29年)、[[新東宝]]傍系の近江プロにはいる<ref group="注">[[大蔵貢]]の実弟で、歌手で映画監督の近江俊郎が起こした</ref><ref name="pink"></ref>。やがて[[新東宝]]に移る。<br />
<br />
1958年(昭和33年)、[[石井輝男]]監督の『天城心中・天国に結ぶ恋』([[新東宝]])の助監督。<br />
<br />
1959年(昭和34年)、『狂った欲望』([[新東宝]])で監督デビュー。<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[新東宝]]が倒産後、[[大蔵映画]]に参加。<br />
<br />
1962年(昭和37年)3月、最初の[[ピンク映画]]とされる『肉体の市場』<ref group="注">主演:香取環。助監督は小川欽也。</ref>を協立映画から発表<ref group="注">協立映画が、[[大蔵映画]]の[[大蔵貢]]によって設立されたペーパーカンパニーという説があり、もしそうならば、当時[[大蔵映画]]は六番目の大手だったので、ピンク映画の定義(独立プロダクション製作によるセックス映画)から外れる。大蔵の「太平洋戦争と姫百合部隊」が未公開のため、協立映画作としたという説。ただし、この一連の説に、小川欽也監督は異議。(『アダルトメディアランダムノート』より)。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、[[小森白]]監督の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(大蔵映画)の一部を撮影当<ref name="web">[http://www.fjmovie.com/ishii/jigoku/intvw-kobayashi.htm Web]の1999インタビューより。</ref><ref group="注">「小森監督が神経衰弱で入院しちゃったので、ラッシュ後に必要なシーンを代理監督した」。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、『沖縄怪談逆吊り幽霊・支那怪談死棺破り』<br />
<br />
1964年(昭和39年)、[[大蔵貢]]監督の『明治大帝御一代記』([[大蔵映画]])の一部の撮影を担当ref name="web"></ref><ref group="注">[[新東宝]]の「明治天皇と日露大戦争」(1957)「天皇・皇后と日清戦争」(1957)「明治大帝と乃木将軍」(1959)を編集し、そこにないシーンを[[小林悟]]が撮影。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、[[池袋名画座]]の正月興行の[[松井康子]]らの[[ピンク実演]]が人気を集める。演出は[[小林悟]]<ref name="seijin15">[[成人映画]] 1967年(昭和42年)2月号(No. 15)</ref><ref group="注">「この正月興行はどこも[[ピンク実演|実演]]付きがにぎやかだった」「[[池袋名画座]]では正月四日から十日まで”[[松井康子]]とそのグループ”という出演陣で、「源氏裸物語」(演出[[小林悟]])を上演した。一日三回、四十五分のじつえん」「最高が千五百人、平均八百人というヒット」「松井をのぞく女優陣はオッパイ丸出し」出演:[[松井康子]]、白川昌雄。数名の女優。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、台湾で『紅艶女飛龍』などの現地作品10数本を監督。1972年ぐらいまで海外で活動<ref name="web"></ref>。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、松竹が作った東活に参加<ref name="pink"></ref>。<br />
<br />
1973年(昭和48年)、『鏡の中の野心』(東活) 。<br />
<br />
1999年(平成11年)、[[石井輝男]]監督の『地獄』(オーピー映画)の制作総指揮。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*「私が始めてSM映画をてがけたのは、この『[[花と蛇]]』であった。鬼六氏もその頃、関西から東京に住むようになり、何本が一緒にストーリーを考え、映画化したが、これを契機に、私はちょいちょいSMものをてがけるようになった」<ref></ref>。<br />
*『肉体の市場』をピンク映画の第1号とするのは映画評論家の村井実が提唱。他に[[本木荘二郎]]『肉体自由貿易』(国新映画)(同年11月)とする後藤敏説もある。<br />
*『肉体の市場』は公開後すぐの3月15日に公然猥褻の警告を受け、該当部分をすぐカット。<br />
*トリフォーやジャン=リュック・ゴダールに影響され『肉体の市場』を作った<ref name="TDC">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4813010962?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4813010962 藤木TDC『アダルトメディア・ランダムノート』(ミリオン出版, 2004)]</ref>。<br />
*[[小川欽也]]は[[小林悟]]の助監督をしていた。<br />
<br />
==代表作==<br />
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0181230.htm 日本映画データベース]<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:こばやし さとる}}<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:映画監督]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%B0%8F%E6%9E%97%E6%82%9F&diff=47677
小林悟
2017-07-23T07:51:31Z
<p>ボテル: /* 代表作 */</p>
<hr />
<div>'''こばやし さとる'''、1930年(昭和5年)8月1日-2001年(平成13年)11月15日<br />
<br />
==概要==<br />
<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Satoru_Kobayashi Satoru Kobayashi ]、左次郎、松本千之<br />
<br />
==略歴==<br />
1930年(昭和5年)8月1日、長野県に生まれる<ref name="wiki">[http://ja.wikipedia.org/wiki/小林悟 Wikipedia]より。</ref>。<br />
<br />
1950年代、早稲田大学卒業<ref name="pink">鈴木義昭『ピンク映画水滸伝 その二〇年史』(1983, 青心社)</ref>。<br />
<br />
1954年(昭和29年)、[[新東宝]]傍系の近江プロにはいる<ref group="注">[[大蔵貢]]の実弟で、歌手で映画監督の近江俊郎が起こした</ref><ref name="pink"></ref>。やがて[[新東宝]]に移る。<br />
<br />
1958年(昭和33年)、[[石井輝男]]監督の『天城心中・天国に結ぶ恋』([[新東宝]])の助監督。<br />
<br />
1959年(昭和34年)、『狂った欲望』([[新東宝]])で監督デビュー。<br />
<br />
1961年(昭和36年)、[[新東宝]]が倒産後、[[大蔵映画]]に参加。<br />
<br />
1962年(昭和37年)3月、最初の[[ピンク映画]]とされる『肉体の市場』<ref group="注">主演:香取環。助監督は小川欽也。</ref>を協立映画から発表<ref group="注">協立映画が、[[大蔵映画]]の[[大蔵貢]]によって設立されたペーパーカンパニーという説があり、もしそうならば、当時[[大蔵映画]]は六番目の大手だったので、ピンク映画の定義(独立プロダクション製作によるセックス映画)から外れる。大蔵の「太平洋戦争と姫百合部隊」が未公開のため、協立映画作としたという説。ただし、この一連の説に、小川欽也監督は異議。(『アダルトメディアランダムノート』より)。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、[[小森白]]監督の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(大蔵映画)の一部を撮影当<ref name="web">[http://www.fjmovie.com/ishii/jigoku/intvw-kobayashi.htm Web]の1999インタビューより。</ref><ref group="注">「小森監督が神経衰弱で入院しちゃったので、ラッシュ後に必要なシーンを代理監督した」。</ref>。<br />
<br />
1962年(昭和37年)、『沖縄怪談逆吊り幽霊・支那怪談死棺破り』<br />
<br />
1964年(昭和39年)、[[大蔵貢]]監督の『明治大帝御一代記』([[大蔵映画]])の一部の撮影を担当ref name="web"></ref><ref group="注">[[新東宝]]の「明治天皇と日露大戦争」(1957)「天皇・皇后と日清戦争」(1957)「明治大帝と乃木将軍」(1959)を編集し、そこにないシーンを[[小林悟]]が撮影。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、[[池袋名画座]]の正月興行の[[松井康子]]らの[[ピンク実演]]が人気を集める。演出は[[小林悟]]<ref name="seijin15">[[成人映画]] 1967年(昭和42年)2月号(No. 15)</ref><ref group="注">「この正月興行はどこも[[ピンク実演|実演]]付きがにぎやかだった」「[[池袋名画座]]では正月四日から十日まで”[[松井康子]]とそのグループ”という出演陣で、「源氏裸物語」(演出[[小林悟]])を上演した。一日三回、四十五分のじつえん」「最高が千五百人、平均八百人というヒット」「松井をのぞく女優陣はオッパイ丸出し」出演:[[松井康子]]、白川昌雄。数名の女優。</ref>。<br />
<br />
1967年(昭和42年)、台湾で『紅艶女飛龍』などの現地作品10数本を監督。1972年ぐらいまで海外で活動<ref name="web"></ref>。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、松竹が作った東活に参加<ref name="pink"></ref>。<br />
<br />
1973年(昭和48年)、『鏡の中の野心』(東活) 。<br />
<br />
1999年(平成11年)、[[石井輝男]]監督の『地獄』(オーピー映画)の制作総指揮。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*『肉体の市場』をピンク映画の第1号とするのは映画評論家の村井実が提唱。他に[[本木荘二郎]]『肉体自由貿易』(国新映画)(同年11月)とする後藤敏説もある。<br />
*『肉体の市場』は公開後すぐの3月15日に公然猥褻の警告を受け、該当部分をすぐカット。<br />
*トリフォーやジャン=リュック・ゴダールに影響され『肉体の市場』を作った<ref name="TDC">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4813010962?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4813010962 藤木TDC『アダルトメディア・ランダムノート』(ミリオン出版, 2004)]</ref>。<br />
*[[小川欽也]]は[[小林悟]]の助監督をしていた。<br />
<br />
==代表作==<br />
*[http://www.jmdb.ne.jp/person/p0181230.htm 日本映画データベース]<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』in [[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:こばやし さとる}}<br />
[[Category:映画]]<br />
[[Category:映画監督]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47676
SMプレイ
2017-07-23T07:50:54Z
<p>ボテル: /* 主な出来事 */</p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay2.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号のカラーグラビア。紫に染めた縄が用いられている。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
:企画・監修:[[上田青柿郎]]。<br />
:ほとんどがカラー・白黒の緊縛写真。<br />
:この頃には珍しく紫色に染めた縄が使われている。<br />
:[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』<br />
:[[吉崎淳二]]『'''海外ポルノSM文学考'''』<br />
:「本誌姉妹紙「緊縛美」4月号の発売は2月」とある。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
:[[小林悟]]『'''日本映画の中のSMロマン'''』<br />
:[[矢崎哲平]]『'''苦い恍惚'''』(挿絵:[[上田洋]])<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47675
SMプレイ
2017-07-23T07:50:32Z
<p>ボテル: /* 主な出来事 */</p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay2.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号のカラーグラビア。紫に染めた縄が用いられている。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
:企画・監修:[[上田青柿郎]]。<br />
:ほとんどがカラー・白黒の緊縛写真。<br />
:この頃には珍しく紫色に染めた縄が使われている。<br />
:[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』<br />
:[[吉崎淳二]]『'''海外ポルノSM文学考'''』<br />
:「本誌姉妹紙「緊縛美」4月号の発売は2月」とある。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
:[[小林悟]]『[[日本映画の中のSMロマン]]』<br />
:[[矢崎哲平]]『'''苦い恍惚'''』(挿絵:[[上田洋]])<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%B4%8B&diff=47674
上田洋
2017-07-23T07:49:41Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>{{kakikake-stub}}<br />
[[画像:HiroshiUrda.jpg|150px|thumbnail|[[上田洋]]「薔薇刑」[[SMファン]]1971年(昭和46年)12月創刊号より]]<br />
'''うえだ ひろし'''、19??年(昭和??年)-<br />
<br />
==概要==<br />
1971年(昭和46年)12月、[[SMファン]]創刊号、[[SMプレイ]]、[[別冊SMファン]]に名をみることのできる絵師。<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english]<br />
<br />
==略歴==<br />
<br />
==エピソード==<br />
<br />
==代表作==<br />
*[[矢崎哲平]]『'''苦い恍惚'''』(挿絵:[[上田洋]])[[SMプレイ]]1973年(昭和48年)2月号。<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:うえだ ひろし}}<br />
[[Category:絵師]]<br />
[[Category:1970年代の絵師]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47673
SMプレイ
2017-07-23T07:48:08Z
<p>ボテル: /* 主な出来事 */</p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay2.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号のカラーグラビア。紫に染めた縄が用いられている。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
:企画・監修:[[上田青柿郎]]。<br />
:ほとんどがカラー・白黒の緊縛写真。<br />
:この頃には珍しく紫色に染めた縄が使われている。<br />
:[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』<br />
:[[吉崎淳二]]『'''海外ポルノSM文学考'''』<br />
:「本誌姉妹紙「緊縛美」4月号の発売は2月」とある。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
:[[矢崎哲平]]『'''苦い恍惚'''』(挿絵:[[上田洋]])<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%90%89%E5%B4%8E%E6%B7%B3%E4%BA%8C&diff=47672
吉崎淳二
2017-07-23T07:45:21Z
<p>ボテル: ページの作成:「SMプレイ」</p>
<hr />
<div>[[SMプレイ]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Maedakai2.jpg&diff=47671
ファイル:Maedakai2.jpg
2017-07-23T07:40:42Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div></div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%B5%B7&diff=47670
前田海
2017-07-23T07:40:26Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>{{kakikake-stub}}<br />
[[画像:Maedakai.jpg|250px|thumbnail|[[SMセカイ]]1972年(昭和47年)6月創刊号より]]<br />
[[画像:Maedakai2.jpg|150px|thumbnail| [[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。]]<br />
<br />
'''まえだ かい'''、19??年(昭和??年)-2000年(平成12年)<ref name="daughter">[[前田寿安]]氏ご息女からの私信 to U</ref>。 <br />
<br />
==概要==<br />
絵師。[[前田寿安]]の実弟<ref name="daughter"></ref>。<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english]<br />
<br />
==略歴==<br />
<br />
==エピソード==<br />
*[[檸檬社]]『[[黒の手帖]]』1971年(昭和46年)創刊号に[[前田海]]らによる「[[三島由紀夫]]・特集」<br />
==代表作==<br />
*[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。<br />
*[[前田寿安]]戯作・[[前田海]]絵師『'''邪宗の門'''』[[SMセカイ]]1972年(昭和47年)6月創刊号。<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:まえだ かい}}<br />
[[Category:絵師]]<br />
[[Category:1970年代の絵師]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E5%89%8D%E7%94%B0%E6%B5%B7&diff=47669
前田海
2017-07-23T07:38:26Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>{{kakikake-stub}}<br />
[[画像:Maedakai.jpg|250px|thumbnail|[[SMセカイ]]1972年(昭和47年)6月創刊号より]]<br />
<br />
'''まえだ かい'''、19??年(昭和??年)-2000年(平成12年)<ref name="daughter">[[前田寿安]]氏ご息女からの私信 to U</ref>。 <br />
<br />
==概要==<br />
絵師。[[前田寿安]]の実弟<ref name="daughter"></ref>。<br />
==別名==<br />
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english]<br />
<br />
==略歴==<br />
<br />
==エピソード==<br />
*[[檸檬社]]『[[黒の手帖]]』1971年(昭和46年)創刊号に[[前田海]]らによる「[[三島由紀夫]]・特集」<br />
==代表作==<br />
*[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。<br />
*[[前田寿安]]戯作・[[前田海]]絵師『'''邪宗の門'''』[[SMセカイ]]1972年(昭和47年)6月創刊号。<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
<br />
==お役たちweb==<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:まえだ かい}}<br />
[[Category:絵師]]<br />
[[Category:1970年代の絵師]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:SMPlay2.jpg&diff=47668
ファイル:SMPlay2.jpg
2017-07-23T07:37:03Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div></div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47667
SMプレイ
2017-07-23T07:36:43Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay2.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号のカラーグラビア。紫に染めた縄が用いられている。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
:企画・監修:[[上田青柿郎]]。<br />
:ほとんどがカラー・白黒の緊縛写真。<br />
:この頃には珍しく紫色に染めた縄が使われている。<br />
:[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』<br />
:[[吉崎淳二]]『'''海外ポルノSM文学考'''』<br />
:「本誌姉妹紙「緊縛美」4月号の発売は2月」とある。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47666
SMプレイ
2017-07-23T07:34:32Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
:企画・監修:[[上田青柿郎]]。<br />
:ほとんどがカラー・白黒の緊縛写真。<br />
:この頃には珍しく紫色に染めた縄(麻縄か)が使われている。<br />
:[[前田海]]『'''土曜の夜の新宿SM地図'''』<br />
:[[吉崎淳二]]『'''海外ポルノSM文学考'''』<br />
:「本誌姉妹紙「緊縛美」4月号の発売は2月」とある。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47665
SMプレイ
2017-07-23T07:26:14Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''[[ワイドプレイ]]'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''[[ワイドプレイ]]'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:SMPlay1.jpg&diff=47664
ファイル:SMPlay1.jpg
2017-07-23T07:25:38Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div></div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=SM%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%A4&diff=47663
SMプレイ
2017-07-23T07:24:48Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:SMPlay1.jpg|250px|thumbnail|[[SMプレイ]]1972年(昭和47年)3月10日創刊号。『'''ワイドプレイ'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として出版。]]<br />
[[画像:SMPlay.jpg|150px|thumbnail|[[SMプレイ]] 1973年(昭和48年)2月号]]<br />
== 概要 ==<br />
1972年(昭和47年)3月に[[辰巳出版]]から[[上田青柿郎]]を編集人に創刊されたポケット版SM雑誌。『'''ワイドプレイ'''』の改題雑誌?<br />
<br />
== 発行年・出版社==<br />
1972年(昭和47年)、[[辰巳出版]]<br />
<br />
== 発行人・編集人==<br />
[[上田青柿郎]]<br />
== 主な出来事==<br />
1972年(昭和47年)3月10日、『'''ワイドプレイ'''』3月号(Vol. 2, No. 4, 通巻6号)として創刊。<br />
<br />
1972年(昭和47年)、6月、10月号確認<br />
<br />
1972年(昭和47年)12月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』12月号がVol. 1, No. 6となっている、<br />
<br />
1973年(昭和48年)2月1日、『'''[[SMプレイ]]'''』新春2月号が第2巻第1号となっている。<br />
<br />
== エピソード==<br />
*1973年(昭和48年)2月号には、 藤崎潤・[[秋吉巒]]「自虐幻想」、[[前田寿安]]「古都抄」など・<br />
== 脚注==<br />
<br />
<br />
== お役たちweb==<br />
*[http://blog.livedoor.jp/taiyoyaro/ 古書店 太陽野郎 地下のお店]<br />
{{DEFAULTSORT:えすえむぷれい}}<br />
[[Category:雑誌]]<br />
[[Category:1970年代の雑誌]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=AZZLO&diff=47660
AZZLO
2017-07-22T04:58:45Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:AZZLO1.jpg|250px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO2.jpg|200px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の記事。]]<br />
[[画像:AZZLO4.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)12月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1998年(平成10年)5月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
1989-2000年に営業していた[[山崎シンジ]]・[[山崎ユミ]]のフェチ系のショップ。イベント企画、出版なども。90年代のボンデージブームを牽引。 <br />
==概要==<br />
[[山崎シンジ]]、[[山崎ユミ]]が1990年代に運営していたフェチ系のショップ。<br />
==別名==<br />
A.Z.Z.L.O<br />
==所在地==<br />
東京都新宿区四谷坂町21<br />
<br />
東京都港区南青山6-13-9 アニス南青山B1A<br />
<br />
==歴史==<br />
1988年昭和63年)、フェテイッシュ・フアッションを中心に エロテイック・アートやクラブ・イベント等をオーガナイズ<ref name="HP">HPより</ref>。<br />
<br />
1989年(平成元年)、四谷にショップをオープン。<br />
<br />
1993年(平成5年)6月15日、ギャラリーをオープン。「トーチャーガーデン」展。<br />
<br />
1997年(平成9年)頃、四谷店に加えて南青山店もオープン。<br />
<br />
1999年(平成11年)11月、「BEN WESTWOOD」の写真集を「E・T」よ り発売<ref name="HP"></ref>。 <br />
<br />
2000年(平成12年)10月下旬、南青山店が閉店。HPを中心とした活動に。<br />
<br />
2000年(平成12年)11月10日、西麻布のBULLET'SにてAZZLO CLOSE PARTY。<br />
<br />
2009年(平成21年)11月28日、[[CROW]]にて[[AZZLO]]オフ会『'''AZZLOFF'''』 開催。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*英国「SKIN TWO」日本正規代理店だった<ref name="HP"></ref>。<br />
*「DISCIPLINE GYM」を開催。芝浦「GOLD」 「YELLOW」「FLW」「AUTOMATIX」等で開催<ref name="HP"></ref>。<br />
*『BODY DISCIPLINE』(フールズメイト, 1992)<br />
*佐野史郎が[[AZZLO]]の常連<ref>[[TOPAZ]]1993年(平成5年)4月号</ref>。<br />
*長男がTAKA-AKI<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
*[http://web.archive.org/web/20000916213216/http://www.azzlo.com:80/whatazzlo.html 昔のHP]<br />
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1124.html 松岡正剛 アヴァン・ポップ]<br />
*[https://twitter.com/azzlo Twitter]<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あずろ}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:SM聖地]]<br />
[[Category:1980年代のSM聖地]]<br />
[[Category:1990年代のSM聖地]]<br />
[[Category:2000年代のSM聖地]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=AZZLO&diff=47659
AZZLO
2017-07-22T02:35:05Z
<p>ボテル: /* 歴史 */</p>
<hr />
<div>[[画像:AZZLO1.jpg|250px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO2.jpg|200px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の記事。]]<br />
[[画像:AZZLO4.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)12月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1998年(平成10年)5月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
<br />
==概要==<br />
[[山崎シンジ]]、[[山崎ユミ]]が1990年代に運営していたフェチ系のショップ。<br />
==別名==<br />
A.Z.Z.L.O<br />
==所在地==<br />
東京都新宿区四谷坂町21<br />
<br />
東京都港区南青山6-13-9 アニス南青山B1A<br />
<br />
==歴史==<br />
1988年昭和63年)、フェテイッシュ・フアッションを中心に エロテイック・アートやクラブ・イベント等をオーガナイズ<ref name="HP">HPより</ref>。<br />
<br />
1989年(平成元年)、四谷にショップをオープン。<br />
<br />
1993年(平成5年)6月15日、ギャラリーをオープン。「トーチャーガーデン」展。<br />
<br />
1997年(平成9年)頃、四谷店に加えて南青山店もオープン。<br />
<br />
1999年(平成11年)11月、「BEN WESTWOOD」の写真集を「E・T」よ り発売<ref name="HP"></ref>。 <br />
<br />
2000年(平成12年)10月下旬、南青山店が閉店。HPを中心とした活動に。<br />
<br />
2000年(平成12年)11月10日、西麻布のBULLET'SにてAZZLO CLOSE PARTY。<br />
<br />
2009年(平成21年)11月28日、[[CROW]]にて[[AZZLO]]オフ会『'''AZZLOFF'''』 開催。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*英国「SKIN TWO」日本正規代理店だった<ref name="HP"></ref>。<br />
*「DISCIPLINE GYM」を開催。芝浦「GOLD」 「YELLOW」「FLW」「AUTOMATIX」等で開催<ref name="HP"></ref>。<br />
*『BODY DISCIPLINE』(フールズメイト, 1992)<br />
*佐野史郎が[[AZZLO]]の常連<ref>[[TOPAZ]]1993年(平成5年)4月号</ref>。<br />
*長男がTAKA-AKI<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
*[http://web.archive.org/web/20000916213216/http://www.azzlo.com:80/whatazzlo.html 昔のHP]<br />
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1124.html 松岡正剛 アヴァン・ポップ]<br />
*[https://twitter.com/azzlo Twitter]<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あずろ}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:SM聖地]]<br />
[[Category:1980年代のSM聖地]]<br />
[[Category:1990年代のSM聖地]]<br />
[[Category:2000年代のSM聖地]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=AZZLO&diff=47658
AZZLO
2017-07-22T02:34:04Z
<p>ボテル: /* 歴史 */</p>
<hr />
<div>[[画像:AZZLO1.jpg|250px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO2.jpg|200px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の記事。]]<br />
[[画像:AZZLO4.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)12月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1998年(平成10年)5月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
<br />
==概要==<br />
[[山崎シンジ]]、[[山崎ユミ]]が1990年代に運営していたフェチ系のショップ。<br />
==別名==<br />
A.Z.Z.L.O<br />
==所在地==<br />
東京都新宿区四谷坂町21<br />
<br />
東京都港区南青山6-13-9 アニス南青山B1A<br />
<br />
==歴史==<br />
1988年昭和63年)、フェテイッシュ・フアッションを中心に エロテイック・アートやクラブ・イベント等をオーガナイズ<ref name="HP">HPより</ref>。<br />
<br />
1989年(平成元年)、四谷にショップをオープン。<br />
<br />
1993年(平成5年)6月15日、ギャラリーをオープン。「トーチャーガーデン」展。<br />
<br />
1997年(平成9年)頃、四谷店に加えて南青山店もオープン。<br />
<br />
1999年(平成11年)11月、「BEN WESTWOOD」の写真集を「E・T」よ り発売<ref name="HP"></ref>。 <br />
<br />
2000年(平成12年)10月下旬、南青山店が閉店。HPを中心とした活動に。<br />
<br />
2000年(平成12年)、西麻布のBULLET'SにてAZZLO CLOSE PARTY。<br />
<br />
2009年(平成21年)11月28日、[[CROW]]にて[[AZZLO]]オフ会『'''AZZLOFF'''』 開催。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*英国「SKIN TWO」日本正規代理店だった<ref name="HP"></ref>。<br />
*「DISCIPLINE GYM」を開催。芝浦「GOLD」 「YELLOW」「FLW」「AUTOMATIX」等で開催<ref name="HP"></ref>。<br />
*『BODY DISCIPLINE』(フールズメイト, 1992)<br />
*佐野史郎が[[AZZLO]]の常連<ref>[[TOPAZ]]1993年(平成5年)4月号</ref>。<br />
*長男がTAKA-AKI<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
*[http://web.archive.org/web/20000916213216/http://www.azzlo.com:80/whatazzlo.html 昔のHP]<br />
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1124.html 松岡正剛 アヴァン・ポップ]<br />
*[https://twitter.com/azzlo Twitter]<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あずろ}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:SM聖地]]<br />
[[Category:1980年代のSM聖地]]<br />
[[Category:1990年代のSM聖地]]<br />
[[Category:2000年代のSM聖地]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=AZZLO&diff=47657
AZZLO
2017-07-22T02:28:48Z
<p>ボテル: /* エピソード */</p>
<hr />
<div>[[画像:AZZLO1.jpg|250px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO2.jpg|200px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の記事。]]<br />
[[画像:AZZLO4.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)12月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1998年(平成10年)5月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
<br />
==概要==<br />
[[山崎シンジ]]、[[山崎ユミ]]が1990年代に運営していたフェチ系のショップ。<br />
==別名==<br />
A.Z.Z.L.O<br />
==所在地==<br />
東京都新宿区四谷坂町21<br />
<br />
東京都港区南青山6-13-9 アニス南青山B1A<br />
<br />
==歴史==<br />
1988年昭和63年)、フェテイッシュ・フアッションを中心に エロテイック・アートやクラブ・イベント等をオーガナイズ<ref name="HP">HPより</ref>。<br />
<br />
1989年(平成元年)、四谷にショップをオープン。<br />
<br />
1993年(平成5年)6月15日、ギャラリーをオープン。「トーチャーガーデン」展。<br />
<br />
1997年(平成9年)頃、四谷店に加えて南青山店もオープン。<br />
<br />
1999年(平成11年)11月、「BEN WESTWOOD」の写真集を「E・T」よ り発売<ref name="HP"></ref>。 <br />
<br />
2002-4年頃、閉店。<br />
<br />
2009年(平成21年)11月28日、[[CROW]]にて[[AZZLO]]オフ会『'''AZZLOFF'''』 開催。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*英国「SKIN TWO」日本正規代理店だった<ref name="HP"></ref>。<br />
*「DISCIPLINE GYM」を開催。芝浦「GOLD」 「YELLOW」「FLW」「AUTOMATIX」等で開催<ref name="HP"></ref>。<br />
*『BODY DISCIPLINE』(フールズメイト, 1992)<br />
*佐野史郎が[[AZZLO]]の常連<ref>[[TOPAZ]]1993年(平成5年)4月号</ref>。<br />
*長男がTAKA-AKI<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
*[http://web.archive.org/web/20000916213216/http://www.azzlo.com:80/whatazzlo.html 昔のHP]<br />
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1124.html 松岡正剛 アヴァン・ポップ]<br />
*[https://twitter.com/azzlo Twitter]<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あずろ}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:SM聖地]]<br />
[[Category:1980年代のSM聖地]]<br />
[[Category:1990年代のSM聖地]]<br />
[[Category:2000年代のSM聖地]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=AZZLO&diff=47656
AZZLO
2017-07-22T02:18:03Z
<p>ボテル: </p>
<hr />
<div>[[画像:AZZLO1.jpg|250px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO2.jpg|200px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の記事。]]<br />
[[画像:AZZLO4.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)12月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1998年(平成10年)5月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
<br />
==概要==<br />
[[山崎シンジ]]、[[山崎ユミ]]が1990年代に運営していたフェチ系のショップ。<br />
==別名==<br />
A.Z.Z.L.O<br />
==所在地==<br />
東京都新宿区四谷坂町21<br />
<br />
東京都港区南青山6-13-9 アニス南青山B1A<br />
<br />
==歴史==<br />
1988年昭和63年)、フェテイッシュ・フアッションを中心に エロテイック・アートやクラブ・イベント等をオーガナイズ<ref name="HP">HPより</ref>。<br />
<br />
1989年(平成元年)、四谷にショップをオープン。<br />
<br />
1993年(平成5年)6月15日、ギャラリーをオープン。「トーチャーガーデン」展。<br />
<br />
1997年(平成9年)頃、四谷店に加えて南青山店もオープン。<br />
<br />
1999年(平成11年)11月、「BEN WESTWOOD」の写真集を「E・T」よ り発売<ref name="HP"></ref>。 <br />
<br />
2002-4年頃、閉店。<br />
<br />
2009年(平成21年)11月28日、[[CROW]]にて[[AZZLO]]オフ会『'''AZZLOFF'''』 開催。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*英国「SKIN TWO」日本正規代理店だった<ref name="HP"></ref>。<br />
*「DISCIPLINE GYM」を開催。芝浦「GOLD」 「YELLOW」「FLW」「AUTOMATIX」等で開催<ref name="HP"></ref>。<br />
*『BODY DISCIPLINE』(フールズメイト, 1992)<br />
*佐野史郎が[[AZZLO]]の常連<ref>[[TOPAZ]]1993年(平成5年)4月号</ref>。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
*[http://web.archive.org/web/20000916213216/http://www.azzlo.com:80/whatazzlo.html 昔のHP]<br />
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1124.html 松岡正剛 アヴァン・ポップ]<br />
*[https://twitter.com/azzlo Twitter]<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あずろ}}<br />
[[Category:SM殿堂]]<br />
[[Category:SM聖地]]<br />
[[Category:1980年代のSM聖地]]<br />
[[Category:1990年代のSM聖地]]<br />
[[Category:2000年代のSM聖地]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=AZZLO&diff=47655
AZZLO
2017-07-22T02:13:33Z
<p>ボテル: /* 歴史 */</p>
<hr />
<div>[[画像:AZZLO1.jpg|250px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO2.jpg|200px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の記事。]]<br />
[[画像:AZZLO4.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)12月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1998年(平成10年)5月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
<br />
==概要==<br />
[[山崎シンジ]]、[[山崎ユミ]]が1990年代に運営していたフェチ系のショップ。<br />
==別名==<br />
A.Z.Z.L.O<br />
==所在地==<br />
東京都新宿区四谷坂町21<br />
<br />
東京都港区南青山6-13-9 アニス南青山B1A<br />
<br />
==歴史==<br />
1988年昭和63年)、フェテイッシュ・フアッションを中心に エロテイック・アートやクラブ・イベント等をオーガナイズ<ref name="HP">HPより</ref>。<br />
<br />
1989年(平成元年)、四谷にショップをオープン。<br />
<br />
1993年(平成5年)6月15日、ギャラリーをオープン。「トーチャーガーデン」展。<br />
<br />
1997年(平成9年)頃、四谷店に加えて南青山店もオープン。<br />
<br />
1999年(平成11年)11月、「BEN WESTWOOD」の写真集を「E・T」よ り発売<ref name="HP"></ref>。 <br />
<br />
2002-4年頃、閉店。<br />
<br />
2009年(平成21年)11月28日、[[CROW]]にて[[AZZLO]]オフ会『'''AZZLOFF'''』 開催。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*英国「SKIN TWO」日本正規代理店だった<ref name="HP"></ref>。<br />
*「DISCIPLINE GYM」を開催。芝浦「GOLD」 「YELLOW」「FLW」「AUTOMATIX」等で開催<ref name="HP"></ref>。<br />
*『BODY DISCIPLINE』(フールズメイト, 1992)<br />
*佐野史郎が[[AZZLO]]の常連<ref>[[TOPAZ]]1993年(平成5年)4月号</ref>。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
*[http://web.archive.org/web/20000916213216/http://www.azzlo.com:80/whatazzlo.html 昔のHP]<br />
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1124.html 松岡正剛 アヴァン・ポップ]<br />
*[https://twitter.com/azzlo Twitter]<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あずろ}}<br />
[[Category:SM聖地]]<br />
[[Category:1980年代のSM聖地]]<br />
[[Category:1990年代のSM聖地]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=AZZLO&diff=47654
AZZLO
2017-07-22T02:05:46Z
<p>ボテル: /* お役たちweb */</p>
<hr />
<div>[[画像:AZZLO1.jpg|250px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO2.jpg|200px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の記事。]]<br />
[[画像:AZZLO4.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)12月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1998年(平成10年)5月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
<br />
==概要==<br />
[[山崎シンジ]]、[[山崎ユミ]]が1990年代に運営していたフェチ系のショップ。<br />
==別名==<br />
A.Z.Z.L.O<br />
==所在地==<br />
東京都新宿区四谷坂町21<br />
<br />
東京都港区南青山6-13-9 アニス南青山B1A<br />
<br />
==歴史==<br />
1988年昭和63年)、フエテイッシュ・フアッションを中心に エロテイック・アートやクラブ・イベント等をオー ガナイズ<ref name="HP">HPより</ref>。<br />
<br />
1989年(平成元年)、四谷にショップをオープン。<br />
<br />
1993年(平成5年)6月15日、ギャラリーをオープン。「トーチャーガーデン」展。<br />
<br />
1997年(平成9年)頃、四谷店に加えて南青山店もオープン。<br />
<br />
1999年(平成11年)11月、「BEN WESTWOOD」の写真集を「E・T」よ り発売<ref name="HP"></ref>。 <br />
<br />
2002-4年頃、閉店。<br />
<br />
2009年(平成21年)11月28日、[[CROW]]にて[[AZZLO]]オフ会『'''AZZLOFF'''』 開催。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*英国「SKIN TWO」日本正規代理店だった<ref name="HP"></ref>。<br />
*「DISCIPLINE GYM」を開催。芝浦「GOLD」 「YELLOW」「FLW」「AUTOMATIX」等で開催<ref name="HP"></ref>。<br />
*『BODY DISCIPLINE』(フールズメイト, 1992)<br />
*佐野史郎が[[AZZLO]]の常連<ref>[[TOPAZ]]1993年(平成5年)4月号</ref>。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
*[http://web.archive.org/web/20000916213216/http://www.azzlo.com:80/whatazzlo.html 昔のHP]<br />
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1124.html 松岡正剛 アヴァン・ポップ]<br />
*[https://twitter.com/azzlo Twitter]<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あずろ}}<br />
[[Category:SM聖地]]<br />
[[Category:1980年代のSM聖地]]<br />
[[Category:1990年代のSM聖地]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
ボテル
https://smpedia.com/index.php?title=AZZLO&diff=47653
AZZLO
2017-07-22T02:05:29Z
<p>ボテル: /* 歴史 */</p>
<hr />
<div>[[画像:AZZLO1.jpg|250px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO2.jpg|200px|thumbnail|[[BIZARRE MAGAZINE(日)]]1990年(平成2年)9月15日No.2号の[[AZZLO]]の記事。]]<br />
[[画像:AZZLO4.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1997年(平成9年)12月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
[[画像:AZZLO3.jpg|150px|thumbnail|[[S&Mスナイパー]]1998年(平成10年)5月号の[[AZZLO]]の広告。]]<br />
<br />
==概要==<br />
[[山崎シンジ]]、[[山崎ユミ]]が1990年代に運営していたフェチ系のショップ。<br />
==別名==<br />
A.Z.Z.L.O<br />
==所在地==<br />
東京都新宿区四谷坂町21<br />
<br />
東京都港区南青山6-13-9 アニス南青山B1A<br />
<br />
==歴史==<br />
1988年昭和63年)、フエテイッシュ・フアッションを中心に エロテイック・アートやクラブ・イベント等をオー ガナイズ<ref name="HP">HPより</ref>。<br />
<br />
1989年(平成元年)、四谷にショップをオープン。<br />
<br />
1993年(平成5年)6月15日、ギャラリーをオープン。「トーチャーガーデン」展。<br />
<br />
1997年(平成9年)頃、四谷店に加えて南青山店もオープン。<br />
<br />
1999年(平成11年)11月、「BEN WESTWOOD」の写真集を「E・T」よ り発売<ref name="HP"></ref>。 <br />
<br />
2002-4年頃、閉店。<br />
<br />
2009年(平成21年)11月28日、[[CROW]]にて[[AZZLO]]オフ会『'''AZZLOFF'''』 開催。<br />
<br />
==エピソード==<br />
*英国「SKIN TWO」日本正規代理店だった<ref name="HP"></ref>。<br />
*「DISCIPLINE GYM」を開催。芝浦「GOLD」 「YELLOW」「FLW」「AUTOMATIX」等で開催<ref name="HP"></ref>。<br />
*『BODY DISCIPLINE』(フールズメイト, 1992)<br />
*佐野史郎が[[AZZLO]]の常連<ref>[[TOPAZ]]1993年(平成5年)4月号</ref>。<br />
<br />
== 引用文献==<br />
<references/><br />
==注釈==<br />
<references group="注"/><br />
== お役たちweb==<br />
*[http://web.archive.org/web/20000916213216/http://www.azzlo.com:80/whatazzlo.html 昔のHP]<br />
*[http://1000ya.isis.ne.jp/1124.html 松岡正剛 アヴァン・ポップ]<br />
<br />
==つながり==<br />
<br />
<br />
{{DEFAULTSORT:あずろ}}<br />
[[Category:SM聖地]]<br />
[[Category:1980年代のSM聖地]]<br />
[[Category:1990年代のSM聖地]]<br />
[[Category:総索引]]</div>
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