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1975年頃、[[向井一也]]氏の「オリジナルの会」を手伝い始める ''(要出典)''。
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1975年(昭和50年)、私が長田師に取材で初めて会ったのが1975年で、その時いただいた名刺は「オサダ・ゼミナール 和光社 長田英吉」とありまして、事務所は新橋6丁目でした。少なくともその時点でオサダ・ゼミナールは活動を開始していたということですね。


1976年(昭和51年)春、大阪から東京に進出してきた[[玉井敬友]]に乞われ、六本木「シアタースキャンダル」の事務所で[[オサダ・ゼミナール]]の会合を半年ほど開催<ref name="henreki1"></ref><ref group="注">ピンク女優の[[長谷圭子]]をモデル。SM撮影会、SMショーを暑い頃の昼間におこなった。</ref>。
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2015年1月7日 (水) 15:44時点における版

長田英吉(1925-2001)

おさだ えいきち、1925年(大正14年)3月15日-2001年(平成13年)9月12日。1960年代から平成時代まで活動した緊縛師。舞台での表現方法にこだわり「SMショーの元祖」と称されることもあり、影響力の強い存在。ストリップ劇場でのSMショーのブームの火付け役でもある。

概要

緊縛師。「SMショーの元祖」と呼ばれる。1965年頃(要確認)にSM実験劇場「オサダ・ゼミナール」をアルス・ノーヴァで公演し、その後の定期的にSM劇をおこなっていた模様。初期は向井一也や劇団「赤と黒」の影響を受けた小難しいSM劇だったようだが、1970年代に入ると、玉井敬友の「シアタースキャンダル」の劇団事務所や桜田伝次郎GSG企画スタジオでオサダ・ゼミナールを開催し、現在のSMショーにつながるスタイルを確立していったものと思われる。1980年代初めには、六本木のSAMM赤坂ブルーシャトーでといった、当時社会に衝撃を与えたSMクラブで定期的にショーを開催しており、SMショーの長田英吉としての地位を確立した。ストリップ劇場でのオサダ・ゼミナールも精力的におこなっていた。長田一美長田スティーヴなどの後継者を育てている。

別名

Eikichi Osada

略歴

1925年(大正14年)3月15日、栃木県に生まれる。

1940年前後、裏窓りべらる奇譚クラブなどを密かに読みSMへの思いを満足させていた。特に、辻村隆塚本鉄三の記事を好む[1]

1940年代、上京して法政大学入学。サドの「ジュスティーヌ」「悪徳の栄え」などを愛読。卒業後、印刷会社を経営[1]

1960年後半、ローズ秋山の残酷ショー、劇団「赤と黒」の公演をよく見に行っていた[1]

1965年??[注 1]、SM実験劇場「オサダ・ゼミナール」を阿佐ヶ谷駅前にあるバレエ練習場(アルス・ノーヴァ)で開催[1][注 2]

1974年?[注 3]向井一也の「矛盾の告白」を観劇。その後、月一回の公演を何度が観る[1][注 4]

1970年?、アルス・ノーヴァで1年ほどオサダ・ゼミナールをおこなった後、神田駅北口近くの雀荘「ロータス」を買い取る。月1回、日曜日の夜に例会をもつ。麻雀業界に噂が立ってしまい、1年余で店をたたむことになる[1]

1975年頃、向井一也氏の「オリジナルの会」を手伝い始める (要出典)

1975年(昭和50年)、私が長田師に取材で初めて会ったのが1975年で、その時いただいた名刺は「オサダ・ゼミナール 和光社 長田英吉」とありまして、事務所は新橋6丁目でした。少なくともその時点でオサダ・ゼミナールは活動を開始していたということですね。

1976年(昭和51年)春、大阪から東京に進出してきた玉井敬友に乞われ、六本木「シアタースキャンダル」の事務所でオサダ・ゼミナールの会合を半年ほど開催[1][注 5]

1978年(昭和53年)、道頓堀劇場に出演。制作部長だった志賀直樹が長田英吉を説得して出演を決断。

1978年(昭和53年)頃、オサダ・ゼミナールの舞台稽古風景が『緊縛秘戯』(エドプロ, 不明)に特集されている。

1979年(昭和54年)、サスペンス&ミステリーマガジン(コバルト社)2月号にオサダ・ゼミナール8mm作品の広告が。コバルト社が代理販売[注 6]

1980年(昭和55年)、賀山茂の経営するSAMMで定期的にSMショー。パートナーは花真衣など。

1980年(昭和55年)10月、道頓堀劇場でのオサダ・ゼミナールの公演を川上譲治が観に行っている[2]

1980年(昭和55年)頃、桜田伝次郎GSG企画スタジオでオサダ・ゼミナールの会合を開く。黒川真由美などのGSG企画の女優をモデルに[1]

1980年代前半、11PM(関西)で紹介。藤本義一が司会、阿部牧郎がゲスト。撮影はGSG企画のスタジオ[1]

1981年(昭和56年)1月8日、葵マリ赤坂ブルーシャトーでの定例ショーに出演[注 7]。司会は田辺一鶴、モデルはエミ[3][注 8]

1982年(昭和57年)、根暗童子ラー企画所属のモデルで地方公演[4]

1983年(昭和58年)、 代々木忠監修、『オーガズム』(企画:アテナ映像、発売:みみずくビデオ)に出演。

1986年(昭和61年)、長田一美がライターとして訪問。

1986年(昭和61年)、早乙女宏美とショーを開始[4][注 9]

1986年(昭和61年)12月、新宿モダンアートでの長田英吉早乙女宏美のショーがフォーカスにとりあげられる[5]

1989年(平成元年)12月21日ー31日、 鶴見新世界にて早乙女宏美と引退興行[4]

1990年(平成2年)1月ー6月、鶴見新世界[注 10]社長[4]

1991年(平成3年)、船橋若松劇場[注 11]社長(翌年10月まで)[4]

1991年(平成3年)10月20日、脳血栓で倒れる[4]

1993年(平成5年)6月3日、大塚のホテルCoCoの1階にオープンしたSMパブ「ブラック&ホワイト」の記念パーティーで早乙女宏美とショー[注 12][4]

1993年(平成5年)11月、渋谷のパブ「doga」にてで小澤一美とショー[4]

1993年(平成5年)12月、京都のSMクラブ「薔薇十字館」にてショー[4]

1994年(平成6年)11月、道頓堀劇場で葵瑠璃とショー[4]

1995年(平成7年)1月、上野スターで桂木綾乃らとショー[4]

1996年(平成8年)9月12日、新宿の「SMパブ劇場ボンデージ」の顧問に就任[6]。オープニングで刹奈紫之とショー[4]。1999年(平成11年)9月まで毎週金曜日に定期ショー。

1997年(平成9年)6月14日と19日、若松劇場にて「長田ゼミナール」。出演:長田英吉早乙女宏美[7]

1997年(平成9年)8月21日〜30日、ショーアップ大宮にて『長田ゼミナール&早乙女宏美[7]

1997年(平成9年)10月21日〜30日、鶴見新世界にて早乙女宏美 (長田ゼミナール)[7]

1998年(平成10年)7月27日、ロフトプラスワンてに早乙女宏美とショー。

1998年(平成10年)8月7日、長田英吉が「縛り方の勉強会」開催。

1999年(平成11年)6月、「縛る会(プロから学ぶ縛り方)」開催。

1999年(平成11年)7月、舞台から落ちて怪我[4]

1999年(平成11年)10月、長田スティーヴが弟子入り。

1999年(平成11年)10月、パラダイスTVで『SM匠の世界#1~長田英吉の世界~』収録。早乙女宏美長田一美[4]

1999年(平成11年)11月、六本木ミストレスで定期的にショーを始める。2000年(平成12年)6月まで続く。

1999年(平成11年)7月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:早乙女宏美いずみゆきこ小沢一美(交代で)[7]

2000年(平成12年)2月22日、パラダイスTVに生出演して緊縛を披露。

2000年(平成12年)4月、池袋にある長田スティーブのStudio6で定期的にショーを開催。9月まで続く。

2000年(平成12年)7月、フランスから取材。

2000年(平成12年)10月、オサダ・ゼミナールスタジオ設立。長田英吉長田一美長田スティーヴ丸木司郎でステージをおこなう。

2000年(平成12年)2月11日〜20日、若松劇場にて『長田ゼミナール』。出演:小沢一美[7]

2001年(平成13年)1月21日、入院。

2001年(平成13年)9月12日、永眠。

2001年(平成13年)11月23日、『長田英吉先生を偲ぶ会』。於:六本木Jail。出演者、長田一美長田スティーブ、初代葵マリ、伊藤舞、桜田伝次郎根暗童子みのわひろお森美貴

2002年(平成14年)9月8日、六本木ミストレスで一周忌。出演:長田一美荊子ミラ狂美小室芹奈長田スティーブ

2002年(平成14年)9月12日、ショーアップ大宮でのメモリアルショー。出演:長田スティーブ長田一美

2004年(平成16年)1月22日、ロフトプラスワンにてSM塾オサダ・ゼミナールPresents 「縛りのプロローグ」緊縛師・長田英吉をたどる」【出演】長田一美&みい、夜羽エマ、みのわひろお、鬼塚隆文、ジョウジ川上

エピソード

  • 六本木の自動車工場の2階の玉井氏の事務所で長田先生が会員の集まりを開いた後、玉井氏もSMの会合を持つようになる。ここで桜田伝次郎は始めて玉井氏と出会う。
  • 根暗童子は長田の雀友。
  • 80年代の前半は根暗童子が所属するラー企画から森美貴他のモデルを都合していた。「ラーの稽古場で練習してから、SAMMのショーで実践し、それからストリップ小屋へ乗るという順番でした。」[8]
  • オサダ・ゼミナールのイベントは「向島百花園のあたり、次ぎに上野の熱海亭[注 13](和風旅館)、その次ぎが蔵のある和風旅館[注 14](東京都文京区にある旅館 札幌)でイベント。佐土魔造氏も来てました。」とある[4]
  • 「カラビナ」を使いはじめた
  • 「緊縛師」という名称を使い出した。
  • 桜の木でできた滑車を使っていた。
  • 「かつて上野の某旅館でSM緊縛撮影会というのがあって、その現場に警察が踏み込んだのですよ。で、このS本さんと故長田英吉師が逮捕されてしまった。その時のモデルの一人が山田詠美で、彼女は出番が終わって帰ったあとだったので難を逃れた。 」(館淳一の「ぐらんぴ日記」2010年12月06日より)

代表作

緊縛教材

  • 縄の魔術師★長田英吉 緊縛テクニック BIND TECHNIQUE』(ボルドー, 1982)(監督:吉川次郎、企画:小山田二郎、カメラ:塩野和也 河原博美 上田賢一、VE:牛山照夫、出演:長田英吉 高橋ジェーン 吉岡明子)(新宿ACB会館熱海旅館での撮影)
  • ♥緊縛テクニック CAMPUS PORNO』(ボルドー, 1982)(出演:長田英吉 )
  • ザ・ドキュメント オーガズム Part-1』(みみずくビデオパック, 1983) (監修:代々木忠、製作:江口久考、企画:矢野浩祐、撮影:久我剛 伊東英男、照明:秋山徹、助監督:廣木隆一、編集:六本木ビデオセンター)
  • ザ・ドキュメント オーガズム Part-2』(みみずくビデオパック, 1983) 監修:代々木忠

緊縛教材(印刷物)

雑誌

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 長田英吉『私のSM遍歴』SMマニア1996年(平成8年)8月号〜12月号
  2. 川上譲治さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
  3. 葵マリー『SMドキュメント葵マリーの告白手記』(あまとりあ社, 1983)
  4. 4.00 4.01 4.02 4.03 4.04 4.05 4.06 4.07 4.08 4.09 4.10 4.11 4.12 4.13 4.14 長田一美web
  5. 『年末狸吊り寒中水責めーSM緊縛師のドン「長田英吉」の職人芸』FOCUS 1987年(昭和62年)1月2・9日合併号。
  6. S&Mスナイパー1996年(平成8年)11月号
  7. 7.0 7.1 7.2 7.3 7.4 STRIPwikiより
  8. 森美貴、私信 to U

注釈

  1. オサダ・ゼミナールの設立が1965年という表記をしばしば見るが、もう少し遅いのではないか?、向井一也の「矛盾の告白」を観て触発されたのであれば、1970年代中頃であってもおかしくない。慎重な調査が必要。
  2. 「(ピンク映画女優)笹森ルミをモデル。」「スポーツ紙に三行広告」「100人以上の人が集まる」SMマニアの自身の回想によると、きっちりとしたストーリーのあるSM演劇だったようだ。
  3. 向井一也の「矛盾の告白」は1974年10月に開催予告されているp233。もしこれが初演だとすると、長田英吉が、向井一也の芝居を見始めたのは1974年ということになる。
  4. 「SMを哲学的には描いてはいたけれど・・・SMマニアではなかったのだろうし・・・物足りなかった。」と述べている。
  5. ピンク女優の長谷圭子をモデル。SM撮影会、SMショーを暑い頃の昼間におこなった。
  6. 「コバルト社代行部制作、オサダ・ゼミナール長田英吉作・演出」の「緊縛シリーズ」。サスペンス&ミステリーマガジンが改題したSMマガジンの最終号1983年(昭和58年)4月号まで広告が続く。4月号では、シリーズNo. 5, 6。
  7. 長田一美のwebでは、1980年(昭和55年)10月から毎月イベントをおこない、1984年(昭和59年)から年4回のイベント。1988年(昭和63年)に赤坂ブルーシャトーが閉店する3ケ月前まで8年間続いたとある。
  8. 2月5日の節分ショーでも長田英吉が出演。北条小夜子に緊縛を教える。
  9. 「1ケ月に2回(1回は10日間の興業)の公演を3年ぐらい」「ヌードモデルプロダクションの藤木正夫さんの紹介で早乙女宏美さんに出会ったのは新宿東口にある じゅらくの2階」とある。
  10. 1997閉館。横浜市鶴見区鶴見中央4-33-4
  11. 1969年開場。千葉県船橋市本町2-17-27
  12. 「顧問として2ケ月ほど在籍するとともにSMショーを展開」
  13. 熱海旅館と思われる。
  14. 伊勢屋質店かもしれない(旅館ではないが)。

つながり

賀山茂 長田一美 長田スティーヴ 武いさお 桜田伝次郎 早乙女宏美 森美貴 向井一也 葵マリ 根暗童子 丸木司郎 花真衣とSAMMと長田英吉

お役たちweb