「畔亭数久」の版間の差分

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==別名==
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[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Suku_Gurote Suku Gurote]、クロテイカズヒサ、グロテスク、数久操、絵のサインは『SUK』だが和服絵の場合はサインを『畔亭』としている事があり、またサインの代わりに『畔亭数久』の印影なども有る。他にも『KAZU』や『K.S』が可能性を指摘されている。
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=Suku_Gurote Suku Gurote]、クロテイカズヒサ、グロテスク、数久操、絵のサインは『SUK』だが和服絵の場合はサインを『畔亭』としている事があり、またサインの代わりに『畔亭数久』の印影なども有る。他にも『KAZU』や『K.S』が可能性を指摘されている<ref name='ryu'>[http://ryunosumika.blog.fc2.com/blog-entry-43.html 龍之巣:謎の人物、畔亭数久に迫る。]</ref>。


==略歴==
==略歴==
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==エピソード==
==エピソード==
*[[KK通信]]第17号の[http://nawa-art.com/backnumber/kktsushin/195402_17/016.html 編集部便り]には「京都在住の責絵画家[[畔亭数久|数久操]]女史」と紹介されているが真偽は定かでない。
*[[KK通信]]第17号の[http://nawa-art.com/backnumber/kktsushin/195402_17/016.html 編集部便り]には「京都在住の責絵画家[[畔亭数久|数久操]]女史」と紹介されているが真偽は定かでない。
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196607/PAGE022.html p22]に畔亭数久の挿絵が掲載されているが、これは1955年(昭和30年)5月号 [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195505/131.html P138]の再掲載である。この様に1960年代の一連の作品は、全て1954~1955年(昭和29~30年)の作品を再掲載したものである<ref name='ryu'>[http://ryunosumika.blog.fc2.com/blog-entry-43.html 龍之巣:謎の人物、畔亭数久に迫る。]</ref>。
*[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)7月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196607/PAGE022.html p22]に畔亭数久の挿絵が掲載されているが、これは1955年(昭和30年)5月号 [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195505/131.html P138]の再掲載である。この様に1960年代の一連の作品は、全て1954~1955年(昭和29~30年)の作品を再掲載したものである<ref name='ryu'></ref>。
*名前は[[江戸川乱歩]]の「湖畔亭事件」に由来する可能性が指摘されている。
*名前は[[江戸川乱歩]]の「湖畔亭事件」に由来する可能性が指摘されている。
*『DICTIONNAIRE DE L'AMOUR ET DU PLAISIR AU JAPON』Agnes Giardで紹介されている。
*『DICTIONNAIRE DE L'AMOUR ET DU PLAISIR AU JAPON』Agnes Giardで紹介されている。

2014年1月8日 (水) 21:37時点における版

畔亭数久 奇譚クラブ 1954年(昭和29年)5月号より

ぐろて すく、くろてい かずひさ

概要

絵師。1954年(昭和29年)2月のKK通信数久操の名前で初登場。その後、奇譚クラブ3月号にも登場し、1956年(昭和31年)4月号まで精力的に作品を発表した。そのシャープな画風は、後に登場する丸尾末広花輪和一宮西計三につながるものがある。

別名

Suku Gurote、クロテイカズヒサ、グロテスク、数久操、絵のサインは『SUK』だが和服絵の場合はサインを『畔亭』としている事があり、またサインの代わりに『畔亭数久』の印影なども有る。他にも『KAZU』や『K.S』が可能性を指摘されている[1]

略歴

1954年(昭和29年)2月、KK通信第17号, p4の山口晴行『異常性愛テクニック』に、数久操の名前でイラスト。サインは『SUK』。

1954年(昭和29年)3月、奇譚クラブ3月号に数久操の名前で『股間の感覚を刺激する縛り方』。

1954年(昭和29年)4月、奇譚クラブ4月号に畔亭数久と名前を変えて『 轢殺ー鉄路に散る二輪の花ー

エピソード

  • KK通信第17号の編集部便りには「京都在住の責絵画家数久操女史」と紹介されているが真偽は定かでない。
  • 奇譚クラブ1966年(昭和41年)7月号, p22に畔亭数久の挿絵が掲載されているが、これは1955年(昭和30年)5月号 P138の再掲載である。この様に1960年代の一連の作品は、全て1954~1955年(昭和29~30年)の作品を再掲載したものである[1]
  • 名前は江戸川乱歩の「湖畔亭事件」に由来する可能性が指摘されている。
  • 『DICTIONNAIRE DE L'AMOUR ET DU PLAISIR AU JAPON』Agnes Giardで紹介されている。

代表作品

引用文献

注釈

お役たちweb

つながり

<metakeywords> 畔亭数久,数久操,イラストレーター</metakeywords>