田中欣一

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田中欣一(1947-)
田中欣一 緊縛写真家という仕事S&Mスナイパー2007年(平成19年)11月号

たなか きんいち 1947年(昭和22年)1月13日-


概要

写真家。多くのピンク映画で緊縛も担当。日本写真芸術学会会員、新写真派協会会員。

別名

Kinichi Tanaka、バロン・スコンブ[注 1]、ジョン万一郎[注 2]

略歴

1947年(昭和22年)、埼玉県三郷市に生まれる。

1968年(昭和43年)、日本大学芸術学部写真学科卒業。

1969年(昭和44年)、東映制作所[注 3]の嘱託カメラマンとして『プレイガール』『柔道一直線』等の番宣用スチールを撮影。1970年(昭和45年)末まで[注 4]

1970年(昭和45年)秋、東京三世社の『PINKY』の取材で、木俣尭喬監督の『(調査中)』を取材[注 5][注 4]。これ以降、ピンク映画のスチールを手伝うようになる[注 6][注 4]

1971年(昭和46年)、高校時代の写真部先輩と二人で事務所を設立し、ピンク映画のスチール写真を主に撮影。1987年(昭和62年)まで。

1971年(昭和46年)、司書房から発刊されたSMファンの緊縛写真を撮影[注 4]。この頃から、若松孝二山本晋也渡辺護向井寛高橋伴明ピンク映画の緊縛を担当。

1987年(昭和62年)、S&Mスナイパーに『掟破りの銀幕スター』の連載をきっかけに、S&Mスナイパーのメインカメラマンとなる(終刊まで)。

1987年(昭和62年)、(有)田中欣一写真事務所設立。

小説SMセレクトで『緊縛百景』シリーズを連載。これをもとに『緊縛紀行』が作られる。

2002年(平成14年)頃、サイト「Sadistic Monkey」でSM緊縛写真を配信。

2007年(平成19年)11月、S&Mスナイパー11月号で『田中欣一 緊縛写真家という仕事』特集。

2010年(平成22年)6月より、観音スタジオにて「Kin's Bar」を開始。第1回には早乙女宏美志摩紫光が参加。

2010年(平成22年)9月20日-10月2日、『田中欣一×金井清顕 第2回「二人展」』於ヴァニラ画廊

2014年頃まで緊縛撮影会が続いていた。

作品

写真集

緊縛教材

映画

『花の女王蜂性狂乱!』(渡辺護監督、大蔵、1975)、『残酷縛絵伝奇』(山本晋也監督、新東宝、1976)、『谷ナオミ 縛る!』(渡辺護監督、新東宝、1977)、『少女を縛る!』(渡辺護監督、新東宝、1978)、『日本の拷問』(高橋伴明監督、新東宝、1978)、『鞭と緊縛』(高橋伴明監督、新東宝、1979)、『地獄のローパー 緊縛・SM・18才[注 8] 』(片岡修二監督、国映、1986) など、総計百数十本のピンク映画で緊縛を担当。1971年以降のピンク映画におけるほとんど全ての緊縛を担当している(にっかつ直属作品[注 9]の緊縛には関与していない)。

また、『(襲)処女タレント』(伊藤秀裕監督、にっかつ、1984)、『トルコの48時間』(中村幻児監督、にっかつ、1984)、『下半身症候群』(中村幻児監督、にっかつ、1984)、『ニャンニャン娘』(中村幻児監督、にっかつ、1984)、『先生、私の体に火をつけないで』(廣木隆一監督、にっかつ、1984)、『ザ・折檻 』(伊集院剛監督、雄プロ、1985)、『オーガズム・真理子』(加藤文彦監督、にっかつ、1985)、『聖熟女』(廣木隆一監督、にっかつ、1988)など約800本のピンク映画でスチール担当。

エピソード

  • 百花苑、目黒や本郷にあった古い日本家屋などを撮影によく使った[1]

引用文献

  1. 田中欣一、私信 to U

注釈

  1. 「制服コレクション」で使用。Romain Slocombeをパロった名前。
  2. S&Mスナイパーの『加虐万博館』で使用。
  3. 当時、東映撮影所の中に、「東映制作所」と「東映テレビプロダクション」があり、「東映制作所」は「キーハンター」「プレイガール」「柔道一直線」等を、「東映テレビプロダクション」刑事物ドラマを制作していた。
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 私信
  5. 19xx公開。「プロダクション鷹」作品。珠瑠美主演。製作助手が和泉聖治。
  6. 助監督が撮っていたスチールがお粗末なので、自由な取材を交換条件に、ポスターと劇場用写真を無料で撮影することになった。以後、1980年代の中頃まで、多くの監督の800本近いピンク映画を手伝ってきた。
  7. 目黒にあった日本家屋で撮影をした。荒木経惟もしばしば使った場所。私信。
  8. 地上45mもの高さでクレーン車に吊られシーンは早乙女宏美が自ら持ち込んだ企画。
  9. にっかつは、その後期には、一部の作品を独立系プロ(ピンク映画会社)に外注していた。『ザ・折檻 』(伊集院剛監督、雄プロ、1985)などがその例。

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