東京三世社

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東京三世社(とうきょうさんせいしゃ)。三世社三世新社東京三世社と社名を変え、現在に続いている老舗雑誌社。1970年(昭和45年)にSMセレクトを発行し、その後のSM雑誌ブームの火付け役となった。

所在地

1952年(昭和27年)頃、三世社として「千代田区神田錦町2-3」にあった。「実話雑誌」を発行。

1963年(昭和38年)頃、三世新社として「台東区仲御徒町4-22」にあった。

1964年(昭和39年)、町名変更で同じ場所のまま三世新社として「台東区上野6-8-23」にある。

1968年(昭和43年)9月、東京三世社と社名変更して「台東区上野6-8-23」にあった。


現在、千代田区三崎町2-10-1(千代田区山崎町2-10-1)

歴史

1951年(昭和26年)、『別冊モダン日本』[注 1]を作っていた牧野英二が吉行淳之介[注 2]、津久井柾章(名和青朗・名和左膳)と共に創立。『講談讀切倶楽部』を創刊[1]

1953年(昭和28年)頃、石坂幸男社長が宮坂信を引き抜く。

1955年(昭和30年)頃、山岸康二が「実話雑誌」に記事を書き始める。

1962年(昭和37年)、三世新社となる。

1968年(昭和43年)9月3日、東京三世社となる。

1970年(昭和45年)4月、仙田弘が入社。

1970年(昭和45年)、田中欣一が「Pinky」の取材を担当しはじめる。

1970年頃、『讀切倶楽部』が落ち込み『実話雑誌』が主力雑誌[2]

1970年(昭和45年)11月、『実話雑誌』11月増刊号としてSMセレクトが発売。宮坂信仙田弘などが関わる。

1971年(昭和46年)1月、SMセレクト1月号が発売。隔月から月刊に代わり、2月号発行。3月号は準備不足で休刊[2]

1971年(昭和46年)7月、石川精亨他3名が司書房に移る[2]

1972年(昭和47年)2月、組合結成。

1972年(昭和47年)7月、宮坂信が退社してサン出版を設立。

1974年(昭和49年)12月、火事を起こす。御徒町を離れ水道橋に移る[2]

1975年(昭和50年)頃、オーナー[注 3]が死去[2]

1980年(昭和55年)前後、自社ビルを建てる。

1995年(平成7年)、仙田弘が退社[2]

2005年(平成17年)、8月期には売上高45億円とピーク。その後は連続して赤字[3]

2010年(平成22年)9月、営業を停止し、会社を存続させながら残務処理。山岡真一郎会長[3]

事業

雑誌

  • 『週刊モダン日本』
  • SMセレクト
  • 「読切倶楽部」
  • 実話雑誌
  • 「夫婦と生活」
  • 「MEN」
  • 「PINKY」
  • コミック画報』(1966年頃、三世新社)
  • カメラ画報』(1966年頃、三世新社)
  • LOVE』(東京三世社, 1971)
  • 『美人ヌード悩殺300態 PINKY増刊4』(1972、三世新社)
  • 成人映画・春の恍惚スペクタクル』(東京三世社, 1973)(実話とマンガ1973年5月増刊)

編集人

三世社時代は彦坂博、石川精学、石田昇、宮坂信

三世新社時代は石坂平男、山岡総一、山岡真一郎、宮坂信

東京三世社時代は、山岡総一、山岡真一郎、中村勝郎、宮坂信仙田弘、長岡健次、山根麗子、島尾修、飯田哲章、田中尚一、兼田和雄、塩山芳明、小田由麻、山口英雄、清野有志、石坂隆久

エピソード

  • 石坂幸男は戦後、御徒町で飴やゾッキ本を売っていた。
  • 「三世」は「親子は一世、主従は三世」からとったのかもしれない。

参考資料

  1. Wikipedia
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 仙田弘『総天然色の夢』(本の雑誌社, 2001)
  3. 3.0 3.1 [1]新文化 出版業界紙 ニュースフラッシュ関連ページ:2010年8月3日閲覧

注釈

  1. 1930年(昭和5年)、菊池寛によって文藝春秋社から創刊された『モダン日本』に起源をもつ。2年後にモダン日本社として独立。戦時中は『新太陽』に改名、戦後は新太陽社から復刊。1950年に『別冊モダン日本』として再生。1951年に廃刊。
  2. 1946年(昭和21年)東大を中退して新太陽社に就職。『アンサーズ』の編集長を経て、『モダン日本』の編集長に。
  3. おそらく石坂平男。

外部リンク