川上音二郎

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かわかみ おとじろう、1842年(文久4年)頃-1911年(明治44年)

概要

新派の源流と言われている書生芝居壮士芝居を始めた。「新派劇の創始者」と称される。「オッペケペー節」で有名。福澤諭吉の書生。反政府の自由党の壮士。

別名

川上音吉、浮世亭◯◯、歎水

略歴

慶應義塾の学僕・書生として慶應義塾に学び、一時は警視庁巡査にもなる。

反政府の自由党の壮士。

1883年(明治16年)、立憲帝政党員。「自由童子」と名乗り反政府活動。

1891年(明治24年)2月、川上音二郎を座長とした川上一座が堺市の卯の日座で旗揚げ。書生芝居と呼ばれた。同年、浅草・中村座で「板垣君遭難実記」[1]

1893年(明治26年)、渡仏。

1894年(明治27年)1月、浅草座での川上音二郎一座の『意外』がヒット。出演者は川上音二郎小織桂一郎伊井蓉峰水野好美など。

1894年(明治27年)、日清戦争開戦にあわせた『壮絶快絶日清戦争』が大人気。 伊藤博文が贔屓にしていた芸者貞奴と結婚。

1895年(明治28年)、歌舞伎座で「威海衛陥落」を上演[注 1]。泉鏡花の『滝の白糸』を浅草座で公演。

1896年(明治29年)9月8日、伊藤晴雨が浅草・浅草座川上音二郎の「日清戦争」を観劇[1]

1898年(明治31年)3月と8月、第5回総選挙と第6回総選挙に出馬し落選。

1900年(明治33年)、パリ万博で公演。

1903年以降、『オセロ』『ハムレット』『ヴェニスの商人』など翻訳劇を積極的に上演。

1908年(明治41年)、北浜四丁目に帝国座を開場。帝国女優養成所を創設。

1911年(明治44年)、永眠。

エピソード

代表作

引用文献

  1. 1.0 1.1 伊藤晴雨其の頃を語る(一) 新派劇の責場奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p134

注釈

  1. 市川團十郎は大激怒。

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伊藤晴雨