世田介一

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せだ かいいち、1933年(昭和8年)-??。1960年代後半から活動した緊縛師、編集人。リアリティーを追求したマニアの同好的雑誌の出版にこだわり多くの雑誌の創刊に関わる。荒川也寸志の名で絵師としても地位を確立。

概要

編集人。絵師。文筆家。緊縛師。1960年代後半から奇譚クラブ中宮栄の名で投稿を始めたマニアで、奇譚クラブ終刊後も他のSM雑誌に投稿すると同時に、自ら1977年(昭和52年)にマニア向けの少部数雑誌SUN&MOON を創刊した。その後も、数多くの雑誌の発行を続けたが、一貫してコアなマニアのみを対象とした同人誌的な雑誌を目指しており、奇譚クラブのある側面を後世につなげた人物とも言える。荒川也寸志の名で絵師としても活躍していた。

別名

Kai-ichi Seda荒川也寸志、中宮栄、中宮さかえ、諏訪大路健、諏訪久三、佐伯、豊島園近、多貫欣、左祺兆[1]、笹田介一[注 1]

略歴

1966年(昭和41年)、中宮栄の名で奇譚クラブに投稿を始める[注 2]

1977年(昭和52年)、この頃より世田介一を名のる。

1977年(昭和52年)3月1日、SUN&MOON(日月舎)を創刊[注 3]

1978年(昭和53年)2月25日、サンアンドムーンと誌名を変更し絃映社から出版。編集人は浦戸宏。まもなく意見の対立[注 4]から世田介一が離脱[注 5]

1978年(昭和53年)、スペシャリーS&M(日月舎)創刊。意見の対立から7号を最後に世田介一が離脱[注 6]。。

1979年(昭和54年)9月、S&Mスナイパー創刊号に荒川也寸志の作品。

1979年(昭和54年)頃?、この頃にレジェンドSMを創刊したと思われる。

1980年(昭和55年)、ともえ・えがら(エド・プロダクツ)創刊。

1980年(昭和55年)、異喜域(日月舎)創刊。

1980年(昭和55年)、にちげつクラブ(エド・プロダクツ)創刊。

1982年(昭和57年)、SPROUT(近代書房)創刊。

1983年(昭和58年)2月15日、『SMミラージュ』(群雄新社)創刊。

1985年(昭和60年)11月5日、Pジャンクの別冊としてNew Sun&Moon(さーくる社)創刊。

1988年(昭和63年)7月、『異喜域ANIMATOアニマート』(さーくる社)創刊。

1989年(昭和64年)1月15日、『異喜域特号 光輪 HALO』(日月新社)。

1990年前後?、『サディスティックレポート』発行。

1995年(平成7年)11月、ロン・ポアン(笠倉出版)の創刊に関与。

エピソード

  • 世田介一を縦書きにすると「世界一」となる。
  • 『嬲巣』が仕事場兼調教部屋。
  • 世田介一『気癒力―自然医学は、がん・糖尿病などの難病も治すことができる! 』(騎虎書房, 1997)は同姓同名の別人の作品との指摘があったため削除。

代表作

緊縛教材(印刷物)

書籍

ビデオ

雑誌

特集

  • 光輪 荒川也寸志描耽集』1989年(昭和64年)1月15日

写真集

引用文献

注釈

  1. SUN&MOON創刊号『リレーカメラハント 縛絆記』は本文が「笹田介一」で目次が「世田介一」となっている。文体は世田介一のそれと似ている。
  2. この2年前に1回目の投稿があるようだが、調査中。
  3. 世田介一は他に、笹田介一、中宮さかえ、多貫欣の名前で登場。六本木薫も写真、文を寄稿。
  4. 1989年(昭和64年)1月15日発行の『異喜域特号 光輪 HALO』(日月新社)の編集後記にそのことが書かれている。それによると「編集長が何等断りもなく(表紙の)描写人物を白抜きし・・・それを黙認したH社長に対しても、いまだに本心怨恨をもち続けています。」とある。
  5. サンアンドムーンはその後も浦戸宏が発行を続け、やがてえすとえむにさらに誌名変更
  6. スペシャリーS&Mはその後も山谷秋人が発行所を大共社に変え出版を続ける。
  7. SMミラージュが1983年(昭和58年)のみの発行なので、この頃と思われる。

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