「トーク:深井俊彦」の版間の差分
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田中小実昌 | |||
体当たりマンハント旅行』オスカープロ 役:トルコ風呂のマネージャー | 体当たりマンハント旅行』オスカープロ 役:トルコ風呂のマネージャー | ||
■監督:糸文弘 ■原作:豊原路子「体当たりマンハント旅行記」(第二書房)1961 | ■監督:糸文弘 ■原作:豊原路子「体当たりマンハント旅行記」(第二書房)1961 | ||
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■“広島で一座が解散したあと、深井(俊彦)氏はピンク映画にとりかかった。豊原路子という、ものを書く女の人が、自作自演する映画で、コミさんも、自発的に出演することになった。映画の題名は『体当たりマンハント旅行』。製作者が京都のストリップ小屋で一番という評判の、千中ミュージックの社長だし、大阪の小屋の社長もひと口のっかるしで、踊り子さんをどっさり動員できるんだから、ギャラなんかもらえないだろうけれど、コミさんが積極的にのり出すのも当然のしろものなのだ。ロケは、横浜から始まり、静岡、浜松と東海道を下り、京都、大阪、そして終点の神戸へ進むことになっていた。コミさんの役は、トルコ風呂のマネージャーで、このシーンは静岡で片づいた。片づいたけれどコミさんは帰らない。…”(47Pからの抜粋) | ■“広島で一座が解散したあと、深井(俊彦)氏はピンク映画にとりかかった。豊原路子という、ものを書く女の人が、自作自演する映画で、コミさんも、自発的に出演することになった。映画の題名は『体当たりマンハント旅行』。製作者が京都のストリップ小屋で一番という評判の、千中ミュージックの社長だし、大阪の小屋の社長もひと口のっかるしで、踊り子さんをどっさり動員できるんだから、ギャラなんかもらえないだろうけれど、コミさんが積極的にのり出すのも当然のしろものなのだ。ロケは、横浜から始まり、静岡、浜松と東海道を下り、京都、大阪、そして終点の神戸へ進むことになっていた。コミさんの役は、トルコ風呂のマネージャーで、このシーンは静岡で片づいた。片づいたけれどコミさんは帰らない。…”(47Pからの抜粋) | ||
1966年 | |||
・「別冊漫画天国」芸文社 昭和41年11月号 第3巻第11号 | |||
『女色ニッポン縦断:“アナタ”の声に起こされた岐阜の朝駆け』104~106P | |||
“田中小実昌 いま東京の向島にある昌和ミュージック劇場で、氏が師事する深井俊彦氏演出の「情炎色地獄」という芝居に出演中。役柄は女因を刑場にひっぱっていく非人である。倉田和美や花柳若葉らおピンク映画の女優を相手に大熱演。本職の翻訳の方が、この芝居のためはかどらず、出版社から叱られっぱなしという状態だという。” |
2009年12月17日 (木) 08:47時点における版
田中小実昌 体当たりマンハント旅行』オスカープロ 役:トルコ風呂のマネージャー ■監督:糸文弘 ■原作:豊原路子「体当たりマンハント旅行記」(第二書房)1961 ■出演:豊原路子 横浜マコ 南条ユカ
■参考文献:『漫画サンデー』(実業之日本社)昭和41年3月23日号
「東大哲学科出のストリップコメディアン」(山下諭一) 44~47P
■“広島で一座が解散したあと、深井(俊彦)氏はピンク映画にとりかかった。豊原路子という、ものを書く女の人が、自作自演する映画で、コミさんも、自発的に出演することになった。映画の題名は『体当たりマンハント旅行』。製作者が京都のストリップ小屋で一番という評判の、千中ミュージックの社長だし、大阪の小屋の社長もひと口のっかるしで、踊り子さんをどっさり動員できるんだから、ギャラなんかもらえないだろうけれど、コミさんが積極的にのり出すのも当然のしろものなのだ。ロケは、横浜から始まり、静岡、浜松と東海道を下り、京都、大阪、そして終点の神戸へ進むことになっていた。コミさんの役は、トルコ風呂のマネージャーで、このシーンは静岡で片づいた。片づいたけれどコミさんは帰らない。…”(47Pからの抜粋)
1966年
・「別冊漫画天国」芸文社 昭和41年11月号 第3巻第11号
『女色ニッポン縦断:“アナタ”の声に起こされた岐阜の朝駆け』104~106P
“田中小実昌 いま東京の向島にある昌和ミュージック劇場で、氏が師事する深井俊彦氏演出の「情炎色地獄」という芝居に出演中。役柄は女因を刑場にひっぱっていく非人である。倉田和美や花柳若葉らおピンク映画の女優を相手に大熱演。本職の翻訳の方が、この芝居のためはかどらず、出版社から叱られっぱなしという状態だという。”