ストリップの歴史

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最初のストリップに関する諸説

1947年(昭和22年)帝都座[注 1]1月説

帝都座は現在の三越並び、伊勢丹前

  • 1947年(昭和22年)1月1日、「帝都座五階劇場」にて中村恵美子が薄布をつけて「ヴィナスの誕生」として「額縁ショウ」。2月11日には第2回「額縁ショウ」として「ル・パンテオン」で甲斐美春(美和・一)が全裸になり、額縁に収まる。演出は第1回と同じ秦豊吉(=丸木砂土)[注 2]。8月には同所で劇団「空気座」の「肉体の門」で半裸シーン。[1]
  • 1947年(昭和22年)1月15日、新宿帝都座五階劇場で、甲斐三和が「額縁ショー」または「名画ショー」。甲斐三和は一九歳のダンサー。ショーは、黒いカーテンを開いてから閉じられるまで、わずか四、五分[2]
  • 1947年(昭和22年)1月、秦豊吉(=丸木砂土)が「額縁ショー」を企画。裸になる女性がなかなかみつからず、結局、日劇ダンシングチーム出身の中村笑子(ロシア系のダブル。銀座のおでん屋「お多幸」の娘)に決まる。この時は腰も乳房もベールで隠す。そのあと甲斐美春が全スト。5階の劇場までの階段が地上の大通りまで人でびっしり[3]
  • 1947年(昭和22年)始めに新宿「帝都座」5階で公演中の「空気座」で女優の甲斐美晴が大道具の額縁に入ってヌードポーズを3ポーズで額縁ショー[4]

1947年(昭和22年)帝都座4月説

  • 1947年(昭和22年)4月、帝都座五階の演芸場で甲斐美春、甲斐一、甲斐三和の額縁ショー[5]

1947年(昭和22年)帝都座以外説

  • 1947年(昭和22年)2月、「常磐座」で森川信一座が「モッチャンの若様とモデル」の劇中に裸を取り入れる[1]
  • 1947年(昭和22年)5月、渋谷東横デパート4階の軽演劇小屋「東横第二劇場」で劇団「東京フォーリズ」のバライエティ[注 3]で、ラナー多坂がソロの最後に舞台中央のタップ台に上がりポーズを決めブラを取る。ブラは自分で取るのではなく、進行係助手の田中小実昌が、後ろの割緞帳のあいだから手を伸ばして取った[6]。渋谷東横デパートにあるアミューズメントセンターの「乳房の祭典」で、「世界堂」のモデルから来たモデルが乳房を見せる。数秒で暗転[5]。ラナー多坂が辞めた後に、佐藤美子が全裸に紗の布をまとい舞台を歩き、最後に全部取る。全ストの元祖[6]
  • 1947年(昭和22年)5月、「日劇」で長谷川一夫、入江たか子の「花のルムパ」の中、上野美子が女神役で半裸に[1]
  • 1947年(昭和22年)頃、千葉・白浜の映画館のリベラルショーで、暗転になる前に30秒ぐらい乳房を見せる[5]
  • 1947年(昭和22年)頃、千日前の浪速座(関西の最初のストリップ劇場)で新宮暎児の新ショウ。踊り子はナナ千恵。千日前には木下興業や島田興業の仮設があった[5]
  • 1947年(昭和22年)頃、NHKの前の飛行館の裏当たりの観光ホテルで、メリー松原が秘密ショーをやった。同じ頃、神戸のマーキーショー。大阪の今里にある双葉館での「長崎物語」で全裸ショー[5]

1946年(昭和21年)説

  • 中谷陽が福岡の柳橋劇場という仮設のような小屋(古池慶三が主催)でペティ丸山がパンツはいて足をあげるショーをやっているのを見た[5]
  • 1946年(昭和21年)春、浅草「千代田館」(実演と映画)の女剣劇一座がほんの数秒乳房を見せる。近くの「常磐座」でも[4]

ストリップ第1期

動かないヌードから次第に動くストリップに。1950年(昭和25年)、1951年(昭和26年)に1つのピークを迎える。

  • 1947年(昭和22年)後期、「浅草ロック座」(旧万盛座)「池袋文化劇場」「すみだ劇場」(浅草松屋 六階)が開館。
  • 1948年(昭和23年)3月、正邦乙彦が「常盤座」で「ストリップ・ショウ」という名称を使い出す[1]
  • 1948年(昭和23年)4月、森川信の劇団「モデルと若様」で桜真弓が裸で長いすに座る[5]
  • 1948年(昭和23年)春、「百万弗劇場」で「動くストリップ」が出現。踊りながらパンツの隙間を覗かせる[7]
  • 1948年(昭和23年)6月、正邦乙彦の演出で、常磐座においてヘレン滝(ブランコにのせて動かす)、福田はるみがは裸で踊る[5]。ヘレン滝は「猥褻陳列罪第一号」として逮捕[4]
  • 1948年(昭和23年)、浅草に「公園劇場」ができ、「入浴ショー」が上演[4]
  • 1948年(昭和23年)6月前後、「朱里みさを[注 4]とパルナスショウ」の「奴隷市場」にグレース松原。浅草ロック座、大都劇場、池袋文化劇場で[5]
  • 1948年(昭和23年)、関西のアポロショーで初の花魁ショー。深井俊彦が演出[5]
  • 1949年(昭和24年)、この頃からストリップ界に台本が使われるようになる。役者、楽団、照明、裏方に配布[8]
  • 1949年(昭和24年)、常磐座でメーリー松原ショー(振付:矢野英二)。ヒロセ元美が参加[5]
  • 1950年(昭和25年)、メリー松原、グレース松原、ヘレン滝、ミス池上、ヒロセ元美、原みどり、福田はるみ、ハニーロイ,リリー谷、がスター[5]
  • 1950年(昭和25年)、大阪のマーキーショーはつぶれ、ルミー芝ショー、メトロショー、モダンアートショーが生まれる[注 5]。京都には京極小劇場、大阪は温泉劇場と道頓堀劇場、神戸は新開地劇場。この頃は芝居と一緒で三遊亭柳枝劇団(ミヤコ蝶々がいた)など[5]
  • 1950年(昭和25年)、浅草座という「小劇場」スタイルが出来てくる。音楽隊の代わりにレコード。踊りの出来ないモデルのお酌をされたりゲームをしたり。踊りの下手なグレース松原が最初。第2期の美人座、カジノ座もこの系統。「入浴ショー」などで注目[5]

ストリップ第2期

踊るだけのショーに飽きが来、ミュージカル仕立てのショーが盛んになる。

  • 1951年(昭和26年)、最初の外人ヌードショー(新宿セントラル)は在日ハンガリア人のミスアンドレア[5]
  • 1951年(昭和26年)、入浴ショーが浅草でブームに。「美人座」は檜風呂、「浅草座」は洋風のバスタブ。
  • 1952年(昭和27年)、この頃、それまで乳首につけていたスパンコールが取れる[5]
  • 第2期(1951年〜1955年)には、国際セントラル(国際劇場の4階)、百万弗劇場(国際劇場のはす向かいで伊藤晴雨が責めの芝居をやっていた。渥美清もいた)、パリー座(錦糸町)、美人座、浅草座、カジノ座、公楽座(赤羽)、池袋アバンギャルド、日劇小劇場、ロック座、新宿フランス座(茶川一郎、南伸介がいた。今の伊勢丹)、池袋フランス座、浅草フランス座(渥美清、長門勇、佐山俊二、谷幹一、関系六がいた)、銀座コニー劇場、オデオン座(五反田)、カジノ座(蒲田)、公演劇場(ロイ・ジェームスがいた)、東劇バーレスク(岡田真澄がいた)。関西ではグループ単位(踊り子8人、バンド4人、コメディアン)の活動がメインで、東京ショー、メトロショー、キットヒットショー、アポロショー、アカデミィショー、ルミー芝ショー、東京ファッションショー、ヘレン松原ショー、東京ニューヨークショー、モダンアートショー、金粉ショー。関西の小屋は浪速座(千日前)、弥生座(千日前)、道頓堀劇場、温泉劇場(1950年から。新世界のジャンジャン横町。後に映画館に)、木川劇場(十三)、飛田OS(前身は泉座。レニイ泉が踊り子の養成)。東寺劇場、伏見ミュージック、伊丹ミュージック。岐阜セントラル劇場。金沢の香林坊に立花劇場[5]

ストリップ第3期

特出し、全ストが広まりストリップの衰退期に向かう。

  • 1957年(昭和32年)頃、特出しが始まる。
  • 1965年(昭和40年)、広小路作戦(暴力団取り締まり)で、名古屋の10軒ほどの劇場をもっていた国際興業がつぶされ、それまで盛んだった名古屋ストリップが壊滅[8]
  • 1962年(昭和37年)から1965年(昭和40年)すぎに「残酷ショー」が流行る。ロベルト秋山(=ローズ秋山?)、伊藤残酷ショー(=伊藤一夫?)。鉄の五郎ショーとか次々現れた[4]
  • 1965年(昭和40年)頃、深井が「残酷ショー」を始める。全盛期は30組ほど存在[8]
  • 1966年(昭和41年)、川越ミュージック11月公演以降、ストリップ界から台本が消える(日劇ミュージックホールは別)[8]
  • 1966年(昭和41年)頃、この頃からオープンが広まる[8]
  • 1978年(昭和53年)頃、道頓堀劇場の制作部長だった志賀直樹がみのわひろおを通じて長田英吉を説得し、SMショーが始まる[注 7][4]
  • 1978年(昭和53年)11月1日、玉井敬友のシアタースキャンダルが「春風座」でSMショー。

参考資料

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 ストリップデータベースであるStrip Memorialに掲載。
  2. おもしろニュース研究会 「20世紀B級ニュース」からの引用として[1]に掲載。
  3. 田中小実昌、吉村平吉、メリー松原、正邦乙彦、樋口四郎『われら線中ストリップ派』in 「カストリ復刻版」日本出版社, 1975年(昭和50年)
  4. 4.0 4.1 4.2 4.3 4.4 4.5 みのわひろお『日本ストリップ50年史』(三一書房, 1999)
  5. 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 5.11 5.12 5.13 5.14 5.15 5.16 小沢昭一、 深井俊彦、中谷陽「消える灯・燃える炎ー戦後ストリップ史」新劇、1973年(昭和48年)9月号
  6. 6.0 6.1 田中小実昌『ストリップ用語私史』新劇、1973年(昭和48年)9月号
  7. 広岡敬一『戦後性風俗体系 わが女神たち』(朝日出版社, 2000)
  8. 8.0 8.1 8.2 8.3 8.4 佐山淳『外人関西ヌードショウ』新劇、1973年(昭和48年)9月号

注釈

  1. 戦前より新宿にある娯楽施設。劇場、映画館、ダンスホールなどが入る。空襲を逃れ残った数少ないビルの1つ。戦後しばらくして、新宿日活劇場となり、現在は新宿マルイ本館。浅草にも帝都座があった。
  2. 帝国劇場社長。サド作品の翻訳紹介でも有名。世松本幸四郎の甥。
  3. 当時の軽演劇は芝居が2本、バライエティが1本が標準。
  4. 朱里エイコの母
  5. 関西は個人でなくチームで活動したのが特徴。
  6. 横浜セントラルで初めてヌードになる女性が多かった。深井俊彦、高崎三郎、緑川士郎、正邦乙彦がいた。
  7. 「SMとは何か」「SM調教の歴史と実験」など、けっこうおかたいテーマを作って舞台化。が、しだいに浣腸、鞭、ローソク、吊るしと過激化。