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'''せい めい'''、19??年(昭和??年)-
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'''にだいめあおいまりー'''
==概要==
==概要==
1980年代後半に目立った表舞台からの引退を表明する[[初代葵マリー]]の後継者として[[二代目葵マリー]]が短期間活動していたが、二代目の襲名にはやや混乱があったことが伺える。当初は[[赤坂ブルーシャトウ]]の女王様であった[[北条小夜子]]に[[二代目葵マリー]]を襲名させる予定であったらしく、このことは『'''ブルーシャトー引退記念公演'''』のビデオの中で[[初代葵マリー]]が「2代目を[[北条小夜子]]に譲る」と語っていること、および、当時[[北条小夜子]]と親交のあった[[日本悪魔クラブ]]の運営者でもあった[[わたなべ]]氏の証言に支持されている。一方で、雑誌等には[[二代目葵マリー]]としての[[北条小夜子]]の記事は見当たらず、別人の[[紅乱]]が[[二代目葵マリー]]として鰹津していることを示す記事が1989年頃に存在する。おそらく、[[初代葵マリー]]は当初、[[赤坂ブルーシャトウ]]にいた[[北条小夜子]]に[[二代目葵マリー]]を襲名させるつもりであったものの、何らかの理由で[[初代葵マリー]]が新たに経営を始めた[[奴隷契約書]]の[[紅乱]]に[[二代目葵マリー]]を襲名させたものと思われる。なお、[[二代目葵マリー]]に関しては[[三代目葵マリー]]の時のような襲名イベントがおこなわれたという記録は未見で、
1980年代後半に目立った表舞台からの引退を表明する[[初代葵マリー]]の後継者として[[二代目葵マリー]]が短期間活動していたが、二代目の襲名にはやや混乱があったことが伺える。当初は[[赤坂ブルーシャトウ]]の女王様であった[[北条小夜子]]に[[二代目葵マリー]]を襲名させる予定であったらしく、このことは[[週刊読売]]1987年(昭和62年)8月30日号の記事<ref name="‎#YOMIURI1987"></ref>、『'''ブルーシャトー引退記念公演'''』のビデオの中で[[初代葵マリー]]が「2代目を[[北条小夜子]]に譲る」と語っていること、および、当時[[北条小夜子]]と親交のあった[[日本悪魔クラブ]]の運営者でもあった[[わたなべ]]氏の証言に支持されている。一方で、SM雑誌等には別人の[[紅乱]]が[[二代目葵マリー]]として活動していることを示す記事が1989年頃に存在する。おそらく、[[初代葵マリー]]は当初、[[赤坂ブルーシャトウ]]にいた[[北条小夜子]]に[[二代目葵マリー]]を襲名させるつもりであったものの、何らかの理由で[[初代葵マリー]]が新たに経営を始めた[[奴隷契約書]]の[[紅乱]]に[[二代目葵マリー]]を襲名させたものと思われる。いずれにせよ、[[二代目葵マリー]]は短命に終わったものと思われる。
 
==別名==
==別名==
[[北条小夜子]]
[[北条小夜子]]
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1980年代、[[北条小夜子]]が[[赤坂ブルーシャトウ]]に在籍。
1980年代、[[北条小夜子]]が[[赤坂ブルーシャトウ]]に在籍。


1987年(昭和62年)頃、『'''ブルーシャトー引退記念公演'''』のビデオで[[初代葵マリー]]が「2代目を[[北条小夜子]]に譲る」と語っている。
1987年(昭和62年)8月28日、[[アルファイン]]で[[葵マリー]]の引退興行。ショーの最後に北条小夜子に二代目葵マリーの称号を与える戴冠式をおこなう<ref name="‎#YOMIURI1987">『'''名士がズラリ会員だった超高級クラブ"SMの女王"がついに引退!'''』[[週刊読売]]1987年(昭和62年)8月30日号</ref>(『'''ブルーシャトー引退記念公演'''』のビデオで[[初代葵マリー]]が「[[二代目葵マリー|2代目]]を[[北条小夜子]]に譲る」と語っている)。
 
1987年(昭和62年)頃、おそらくこの頃、[[北条小夜子]]は[[日本悪魔クラブ]]のSMショーを観劇し、運営スタッフの[[わたなべ]]氏に自分が[[三代目葵マリー]]を襲名すると述べている(下記エピソード参照)。


1987年(昭和62年)11月、[[マニア倶楽部]]11月号に[[奴隷契約書]]のオープン記事。ママ女王様として[[紅乱]](くれない らん)が紹介されている。
1987年(昭和62年)11月、[[マニア倶楽部]]11月号に[[奴隷契約書]]のオープン記事。ママ女王様として[[紅乱]](くれない らん)が紹介されている。
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==エピソード==
==エピソード==
*[[日本悪魔クラブ]]のSMショーを運営していた[[わたなべ]]氏は「お客様から声をかけてくるケースもあった。その一人が[[北条小夜子]]さん。「あなたたちのやっているのは、SMじゃない!」。北条さんの第一声は、そんな内容だった。そして、さらに、自身のことを「[[二代目葵マリー]]を襲名することになった」とも言っていた<ref>[https://twitter.com/heart__to__art/status/1737417083967959219 X, 2023年12月20日の書き込み]</ref>」「少なくとも北条さんが初対面のときに自身を二代目であると名乗ったのは間違いないこと。その後、自ら二代目であると発言する場面には出くわさなかったが、私は実体験として二代目は北条さんだと断言しておく<ref>[https://twitter.com/heart__to__art/status/1737424178528268381 X, 2023年12月20日の書き込み]</ref> 」と回想している。
*[[三代目葵マリー]]は「二代目は・・・(半年で)初代が引退を言い渡した」「四代目はマンガ家で風俗経験もあるチャコという子が襲名することになっていた(が)・・逃げちゃった」<ref name="Jitsuwa">『'''波瀾万丈ドキュメント SM女王 [[三代目葵マリー]]'''』[[週刊実話]]増刊 週刊実話ザ・タブー 2019年(平成31年)4月13日号</ref>と回想している。
*[[三代目葵マリー]]は「二代目は・・・(半年で)初代が引退を言い渡した」「四代目はマンガ家で風俗経験もあるチャコという子が襲名することになっていた(が)・・逃げちゃった」<ref name="Jitsuwa">『'''波瀾万丈ドキュメント SM女王 [[三代目葵マリー]]'''』[[週刊実話]]増刊 週刊実話ザ・タブー 2019年(平成31年)4月13日号</ref>と回想している。
==ギャラリー==
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画像:HojiSayoko05.jpg|[[週刊読売]]に葵マリーの後継者として紹介されている[[北条小夜子]]<ref name="‎#YOMIURI1987"></ref>
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==代表作==
==代表作==

2024年1月8日 (月) 10:29時点における版

マニア倶楽部1988(昭和63年)10月号に典子の女店主として紹介されている北條小夜子二代目葵マリーを短期間名乗っていたか、あるいは襲名予定で実現しなかったかと思われる。
二代目葵マリーと紹介されている紅乱SMスピリッツ1988年(昭和63年)8月号より。

にだいめあおいまりー

概要

1980年代後半に目立った表舞台からの引退を表明する初代葵マリーの後継者として二代目葵マリーが短期間活動していたが、二代目の襲名にはやや混乱があったことが伺える。当初は赤坂ブルーシャトウの女王様であった北条小夜子二代目葵マリーを襲名させる予定であったらしく、このことは週刊読売1987年(昭和62年)8月30日号の記事[1]、『ブルーシャトー引退記念公演』のビデオの中で初代葵マリーが「2代目を北条小夜子に譲る」と語っていること、および、当時北条小夜子と親交のあった日本悪魔クラブの運営者でもあったわたなべ氏の証言に支持されている。一方で、SM雑誌等には別人の紅乱二代目葵マリーとして活動していることを示す記事が1989年頃に存在する。おそらく、初代葵マリーは当初、赤坂ブルーシャトウにいた北条小夜子二代目葵マリーを襲名させるつもりであったものの、何らかの理由で初代葵マリーが新たに経営を始めた奴隷契約書紅乱二代目葵マリーを襲名させたものと思われる。いずれにせよ、二代目葵マリーは短命に終わったものと思われる。

別名

北条小夜子 紅乱

略歴

1980年代、北条小夜子赤坂ブルーシャトウに在籍。

1987年(昭和62年)8月28日、アルファイン葵マリーの引退興行。ショーの最後に北条小夜子に二代目葵マリーの称号を与える戴冠式をおこなう[1](『ブルーシャトー引退記念公演』のビデオで初代葵マリーが「2代目北条小夜子に譲る」と語っている)。

1987年(昭和62年)頃、おそらくこの頃、北条小夜子日本悪魔クラブのSMショーを観劇し、運営スタッフのわたなべ氏に自分が三代目葵マリーを襲名すると述べている(下記エピソード参照)。

1987年(昭和62年)11月、マニア倶楽部11月号に奴隷契約書のオープン記事。ママ女王様として紅乱(くれない らん)が紹介されている。

1988年(昭和63年)4月頃、葵龍太郎が社長のブルーシャトー赤坂店と、中野店の二店舗に。週に1回合同で中野店でSMショーを開催しており二代目葵マリーが出演していた[2]。中野店は中野クィーンのビルの3F[3]

1989年(平成2年)頃、奴隷契約書二代目葵マリーこと紅乱が中心。月に一度アルファ・インでSMショーを開催[4]

1995年(平成7年)12月7日、三代目葵マリーの襲名披露パーティーが都内で開かれる。初代葵マリも出席[5]

エピソード

  • 日本悪魔クラブのSMショーを運営していたわたなべ氏は「お客様から声をかけてくるケースもあった。その一人が北条小夜子さん。「あなたたちのやっているのは、SMじゃない!」。北条さんの第一声は、そんな内容だった。そして、さらに、自身のことを「二代目葵マリーを襲名することになった」とも言っていた[6]」「少なくとも北条さんが初対面のときに自身を二代目であると名乗ったのは間違いないこと。その後、自ら二代目であると発言する場面には出くわさなかったが、私は実体験として二代目は北条さんだと断言しておく[7] 」と回想している。
  • 三代目葵マリーは「二代目は・・・(半年で)初代が引退を言い渡した」「四代目はマンガ家で風俗経験もあるチャコという子が襲名することになっていた(が)・・逃げちゃった」[8]と回想している。

ギャラリー

代表作

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 名士がズラリ会員だった超高級クラブ"SMの女王"がついに引退!週刊読売1987年(昭和62年)8月30日号
  2. SMスピリッツ1988年(昭和63年)7月号
  3. SMスピリッツ1988年(昭和63年)5月号
  4. S&Mスナイパー1990年(平成2年)1月号
  5. S&Mスナイパー1996年(平成8年)2月号, p233
  6. X, 2023年12月20日の書き込み
  7. X, 2023年12月20日の書き込み
  8. 波瀾万丈ドキュメント SM女王 三代目葵マリー週刊実話増刊 週刊実話ザ・タブー 2019年(平成31年)4月13日号

注釈

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